忘れ難き歳月
村落への使役
収容所から三キロほど離れたところにあるコルホーズ(集団農場)へ作業にいきました。
ジャガイモ掘りです。
コルホーズの事務所に行くと、倉庫に、整然と農機具がおかれています。農民はここで、一日のノルマを割り当てられ、必要な農具を受けとって、仕事に出るらしいのです。その日、我々にはノルマが課せられませんでした。
作業していると、畑ヘロシヤ人の女性がやってきて、ジャガイモ(カルトーチカ)がほしいといいます。OKしたら「スパシーボ スパシーボ」と礼をいって喜んで持って行きました。山の中の人たちは純朴そのものでした。
途中、民家に立ち寄りました。
周囲には、一ヘクタール程の、自家菜園のような畑があります。
中に入ると、奥さんがセッセと調理をしていて、お婆さんは家の中の仕事をしています。ご主人は外で薪割りです。
部屋の片隅の棚には、キリストの絵が飾られ、こっそり信仰している様子でした。
ロシヤ人がよく食べるカーシャをご馳走しもらいました。
親切に、体の具合を悪くした者に薬をのませてくれました。
そこでは牧畜の仕事もありました。牛の群れ追って歩きます。牛の首に小さな鐘をつけて、カランカランと音をたてて、野山を歩かせ草を食べさせます。
夕方になるまで、作業を続け、牛の群れを戻してから、我々も帰ります。
コッソリ、ジャガイモを失敬して、収容所に持帰る者もいました。
「日本に帰ったら何が一番食べたいか?」
ストーブを囲んで、好きな食べ物の話をはじめました。
「羊羹、砂糖がたっぷり入った羊羹だ。渋いお茶と一緒に」
「お刺身、マグロのトロが喰てえ」
みんなの好きな食べ物を聞いていたら、無性に餅が食べたくなりました。子どもの時から餅が大好きで、それを知ってる母は、慰問袋に餅をたくさん入れてくれました。
「餅が喰いたい」と私か言うと、みんなも「餅が喰いたい、餅が喰いたい」と、しばし餅の話で盛り上がりました。
何とかならないかと、ジャガイモで餅を作った者がいました。ゆでたジャガイモの皮をむいて飯盒に入れ、棒で搗くと粘り気が出て餅のようになります。これがラーゲリの中に広まって、我も我もとジャガイモの餅をついて食べました。
製材所
コルホーズの事務所から少し奥まったところに製材所がありました。この地方には電気がありませんので、どうやって製材するのか興味がありました。
製材所の建物は、丸太を井桁にくんで積みあげ、屋根は板で葺いただけの簡単なものでした。その小屋に小型の蒸気機関が据えられていました。薪を燃料にして、動輪をまわすのです。この動力で鋸を回転させて製材がおこなわれていました。
製材工はつぎつぎに赤松の丸太を板にひきます。板は厚かったり薄かったり、技術はあまり上等とはいえません。
次々にひいた板を運搬するのが我々捕虜の仕事です。機械に追われて結構大変な仕事でした。
製粉所
もう一つ蒸気機関を使った工場がありました。製粉工場です。この近くで収穫した麦を製粉するのです。こちらの工場はやはり丸太を組んだ建物でしたが、二階建てです。この辺りで二階建ての建物はめったにありません。二階にあがると大きな木製のロートがありました。これに麦を入れると、一階に据えられた径一メートルはある石臼に落ちる仕組みです。蒸気機関でこの石臼を回転させて、小麦を製粉していたのです。
麦は皮をのぞいただけの、米でいえば玄米で、製粉した粉の中に麦の薄皮がまじって茶色をしています。この粉をパンに焼いたのが、黒パンです。玄米パンならぬ、玄麦パンが黒パンなのです。
粉は袋に詰めて秤量します。その秤たるや明治初期のものかと思われるような古色蒼然とした台秤でした。
「ヤッポン カコイ イエスチ?(日本にもこんなのがあるか)」
製粉所の親父は秤をなでながら、得意そうにいいます。わたしは「ニェット」と答えました。時計のように針が動いて目方がわかるのだと手まねで話すと、親父さんは驚いた顔で感心していました。
兵器の優秀さと対象的に、一般庶民の生活は質素でした。
「ワイナー ネハラショ(戦争はよくない)」
「スターリン ネハラショ (スターリンはよくない)」
彼らも口々に言ってました。
食料不足
支給される食糧は、黒パン、雑穀、肉か魚、油、砂糖、塩とカロリーを計算して、一日分ずつ支給されます。
雑穀に油、肉、ジャガイモをいれて雑炊にしたものが、飯盒に半分そこそこです。
食事がジャガイモだけの日が、何日も続きました。
「体の具合の悪い者が多くなって作業に出られません」
ただでさえ栄養失調なのに、これではたまりません。
ソ連の将校は、「ジャガイモの芽を深くほじりとれ」と炊事担当者に、指示を出しただけでした。
そんな収容所生活で、野草は欠かすことの出来ない補助栄養食品でした。作業で余暇を稼ぎ出しては野草を摘みました。秋には、伐採後の白樺林に敷いたように椎茸が生えます。みつばやせり科の植物が、栄養不足を補ってくれました。
「これは食えるぞ!」
誰かが言うと、たちまち採り切ってしまうほどでした。
春、若芽の萌えるころ、白樺の木にタポール(斧)をうちこみ、瑕をつけると樹液がでます。これを飯盒に受けて、みんなでよく飲みました。とても甘くおいしいのです。誰かがロシヤ人から教わったらしいです。
その他にも、五葉松の実を煎って食べました。
この辺りは、白樺やどろの木が多いのですが、それに混じって五葉松が所々に生えていました。かなり大きな松笠をつけ、なかの実は油気が多くおいしかったです。伐採でこの木に当たると実を採って帰りました。
針鼠のごちそう
仲間が、針鼠をつかまえてきました。早速トタン板を折り曲げて、つるをつけて鍋をつくり、グツグツ煮ました。食べると、脂がのっていてとてもうまいのです。
捕まえた場所を聞き、翌日、作業を終えてから探しに行きました。思った通りもう一匹針鼠が、針を立てて栗のように丸るまってじっと蹲っています。持って行った布をかぶせて生け捕りにしました。
針鼠には気の毒ででしたが、みなでご馳走を分け合いました。
湿地の蚊
北緯六十度のパレーチヤの夏至の頃、太陽は真北近くから昇り、そのまま山の稜線上を南へ回ります。正午になっても、森の上の低い空です。そのまま北に向かって回り沈みます。沈んだあとでも明るい夜がつづきます。白夜です。明るくても体は疲れているので、横になるとぐっすり寝てしまうのでした。
シベリアには蚊等いないと思いましたが、夏には、物凄い蚊の襲撃に参りました。鋸を引く手に幾匹もたかって、猛烈に刺します。仕方ないので頭からぼろをかぶって作業をしました。アブも多かったです。作業をしていると執拗にたかって刺します。
夜は、南京虫です。昼は丸太の割れ目にひそんでいて、夜活動を開始します。首筋を狙われ、ボクボクになりました。痛くて眠れたものではありません。ベンチで寝たり、毛布を縫って寝袋にしている人もいました。
昼、丸太の割れ目に熱湯をかけてみましたが、効果はさっぱりでした。
秋、雁が列をつくって、南の空へ飛んで行きます。
鶴がカウー、カウーと独特な声で鳴きながらゆうゆうと飛んでいきます。
雲一つない凍てついた夜、オーロラが青白く、あるいは、紫色にゆらゆらと北の空に広がりました。内地の空を恋しがりました。内地の土を踏むまでは、死んではならない。忍耐の連続です。
「海がなければなあ」
容易に帰れない絶望感を紛らわすかのように、誰かが口にしました。
雪の積もった冬の夜、仲間が歩哨に狙撃されました。炊事で捨てたジャガイモの皮を拾いに出た時の事です。「ストーイ(止まれ)」命令を聞かずに、止まらなかったため、望楼から銃撃されたのです。情けない出来事です。捕虜の惨めさが身に染みます。遺体は近くの森に埋められました。
また、伐採中の木の下敷きになって死んだ者もありました。
ソ連側と交渉して慰霊祭を行う事にしました。ささやかな祭壇を設け、手作りの花輪を飾り、黒パン、ジャガイモをそなえました。僧籍のある者が回向をしてくれます。さすがに輪袈裟(首に掛ける簡単な袈裟)を持っていたのには感心しました。読経が終わり、一人一人礼拝しました。「耐えて、何としてでも内地の土を踏み、君たちの状況を報告する。寒いだろうが、安らかに眠ってください」
代表者が弔辞を述べました。
昭和21年(1946年)11月3日、日本国憲法公布。
雪中の作業
雪は満州より多く、毎日のようにサラサラした粉雪が、一メートル以上も積もるので、作業は難渋しました。粉雪なので、被服を濡らし、染み込むようなことはありません。したがって、毎日作業は休みなく続きます。「積もっている雪を排除し、地上十センチのところから伐採しろ」カマンジール(監督)が喧しく指示します。一本倒すと雪の中にそっくり埋ってしまいます。さらに、その上に交差するようにつぎつぎと倒して、玉切りをします。雪を掃きながらの作業は、容易なものではありません。
食事の時は火を焚きます。しかし、簡単には火はつきません。雪の上に白樺の皮を剥いで点火するとうまくいくことを教えてもらいました。白樺の皮は非常によく燃えるので、雪のなかの焚きつけには最高です。次第に大きな火にして、焚き火を囲んで食事をします。冬は炊事から橇で雑炊を運んできます。
「飯だぞ!」食事をのせた橇がやって来ると、声が掛かります。作業グループごとに焚き火を囲んで、雑炊をすすり、黒パンを食います。
焚き火の近くで手をかざしても、手の甲は冷たいままです。零下何十度の世界、日本では想像できない寒さですが、帰りたい一心で、働き通しに働いて、体を動かしていたので、なんとか耐えられたのだと思います。また、被服も軍隊当時に比べ、極めて粗末な被服でしたから、今考えてもぞっとします。
持病を持っている人は苦労していました。特に冬期、神経痛の人は大変でした。ソ連軍は、体温に異常がなければ、病人として認めません。だから通常通り作業入員としてラーゲル(収容所)を出されます。焚いた火のそばで、休ませておいて、その人の分まで、他の人がノルマを稼ぎ出したのです。「ロシヤ入は無神経だから、神経痛なんかにはならないんだろう」「神経が鈍いからだ」 みんなブツブツいっていました
気温がマイナス三十度以下になれば、作業は中止になる規則でした。衛生兵の一入が寒暖計を持っていて、マイナス三十度をこえるとソ連側に伝えます。二回ほど作業が中止になりました。ところが、我々が作業に出ているスキに、ソ連兵がこの寒暖計を木っ端みじんに壊してしまったのです。それ以降、どんな吹雪でも、作業が一度も中止にならなかったのは言うまでもありません。
収容所生活で困ったのは、眼鏡です。満足な眼鏡をかけている者は一人もいません。 眼鏡のガラスがおちないように絆創膏を貼ったり、針金を巻いたりして、眼鏡の縁やつるを補強していました。まるでマンガにでるような眼鏡を大切に使っていました。
吹きすさぶ民主の嵐
昭和22年の春、突然、他の収容所から浅利と名乗る共産党員がやってきました。「収容所内における、将校を中心とした旧体制をひっくり返し、民主的な社会を収容所内に築こう。お互いに力をあわせ、苦難に耐え無事に内地の土を踏もう」と収容所の『開放』を叫びました。全員集まって彼の話を聞きました。
この収容所の労働の作業能率が百パーセントを大きく越えてなかったので、尻をたたくために、共産党から派遣されて来たのだろうと、みんな推測しました。いわば安定した収容所の空気に、旧幹部を攻撃することで、嵐を吹き込もうとしたのではないでしょうか。この頃には幹部も、仲間の健康を考え、無理をさせてなかったのです。
ハバロフスク辺りの共産党が発行しているらしい「日本新聞」なる二ページの新聞が配られました。紙面は各地の収容所のノルマの遂行ぶりの他は、民主化の必要性等、思想的な記事で埋まっていました。
ともかく、我々は北緯六十度近くの収容所に連れ込まれたのですから、ノモハンの捕虜の二の舞になりかねないと誰もが心配しました。
隊長は、他の幹部と相談して、民主化に同意する決断をしました。将校たちは、全員幹部の座からおろされ、隊長は他の収容所に送られて行きました。
新しい隊長が選ばれ、義勇隊の指導者や下士官の中から、各中隊長が選ばれました。
昭和22年(1947年)5月3日、日本国憲法施行、地方自治法成立。
カラドフカ→モリニッナヤ
私は、百二十名の人たちの長として、転出を命ぜられました。苦しい労働を共にした仲間達と再会を約束して別れました。
汽車に揺られて着いたところは、山の中、カラドフカという所でした。そこにあったのは一棟の廃屋。翌日から、早速、その倒壊寸前の小屋の修理です。丸太を運び、屋根板を選んで雨露をしのげるようにしました。かまどは粘土をついて作りました。一応、暮らせるようになったら、日を置かずに作業です。ここでも同じように伐採作業です。八月末には紅葉が始まり、十月になると雪が降り始めます。
この頃、またソ連軍は「トウキョウ ダモイ」と言ってきました。「もう騙されるもんか」と皆言いました。
また移動です。
次に汽車で連れて行かれた所は、モリニッナヤという森林でした。ここでも伐採作業が続きました。
新しい収容所に入ると必要なのが、まず飲料水の確保です。ソ連側の指示したところは直径四・五メートルの水溜まりでした。
ところが、ここの水は冬でも凍らないのです。
満州の井戸を思えば、この酷寒のシベリアで凍らないのは不思議でした。その時は誰もその水溜まりが凍らない理由を知りませんでした。
春になってそれを知った時は、絶句しました。穴の底には馬糞が大量に捨ててあったのです。
捨てた馬糞の温もりで水が凍らなかったのでしょう。その水を、2~3ヶ月も飲まされてよく病気にならなかったものです。零下三十度、四十度の寒気に助けられたのでしょうか?
今思っても、吐き気がします。
それにしても捕虜に対する衛生管理のいい加減さにはあきれるほかはありません。
この時期、作業に出る時、「赤旗の歌」や「インターナショナル」の歌を歌って行進したり、「日本新聞」を丸写しにして壁新聞を作ったり、ソ連側に諂うような行動をとりました。しかしどんなに媚びをうったところで、作業能率を上げろと言う圧力は変わりませんでした。
食事も不十分な捕虜の身、無理をして健康を害することの方を恐れました。
春になると、湿地帯での伐採作業を雪解け水が邪魔します。木を倒す度に水しぶきがあがり被服がびしょ濡れになります。冷たい雪解け水にずぶ濡れになっての作業では、はかどりません。
私は、カントーラヘ引っ張られ、作業能率の不振を責められました。
「ヤポンスキー カテゴーリ マーレンキー、ロスキー カテゴーリ ボリショーイ、ワデー ムノーゴ ラボーター ネハラショー、アジナーク ノルマ ネモージノ
」私は、おぼろげな単語をならべて、(日本入は体が小さい。ロシア人は体が大きい。水が多くて、同じノルマはできない)と、言ったつもりでしたが、ソ連の将校は怒って、私に拳銃を突きつけました。一瞬死を覚悟しました。が、しばらくして、「ダワイ」と目配せをして帰してくれました。
昭和23年晩春
また「トウキョウ ダモイ」でガガルカヘ移動しました。
ガガルカ収容所
ここでの作業は、鋸や斧と縁が切れ、穴掘りや土運びの仕事です。初めて一輪車を使いました。鉄製の車輪に木製の箱がついていて、それに土を乗せ、板を敷いたレールの上を転がすのです。
ソ連の人たちは実に陽気でした。夏の夜長ともなれば、遅くまで、バラライカの伴奏で合唱したり、ダンスをしていました。
昼の休憩時間には、近くの野原から、歌やダンスを楽しむ女性達の陽気な笑い声が聞こえてきました。
ある時、被服を受領する為に、ソ連の将校と二人で、街まで汽車で行ったことがありました。移動はいつも貨車でしたので、ソ連の客車に乗ったのは初めてでした。
客の一人が歌い出すと、客車の全員がこれに合わせて、大合唱になったのには、驚きましたが、実に楽しい雰囲気でした。
車両の後ろから一人の老入が乗ってきて、小さなコキューのような楽器をひいて歌っていました。歌がおわると乗客は老人に幾ばくかのお金をわたしていました。
駅にはゴミ一つなく、清掃が行き届いてました。喫煙所以外は禁煙でした。
収容所でその話をすると、「ソ連には紙がないから、紙屑なんか落ちてるはずないだろう」と口を揃えて言います。
大きな麻袋にいっぱいの、被服を受領して、担いで駅へ戻りました。
駅には、同じ列車に乗ろうと大勢集まっています。
日本のようなホームも改札もなく、発車の鐘を合図に、乗客はぞろぞろと列車のドアまで歩きます。列車の入り口は一か所、女性の車掌が切符を検めています。不正が多いらしく、男の胸ぐらをつかんで、車外へ押し出してました。列車はすし詰め状態で、車内に入れません。なんとか、ソ連の将校と二人で荷物を列車のデッキに押しあげました。私達は列車の一番後ろの外側に、ぶら下がるようにつかまって行くしかありませんでした。落ちたら一巻の終わりです。必死にしがみつきました。汽車の速度が増すにつれ、早春の寒気にふかれて気が遠くなるようでした。今考えると、よく無事だったと感心します。
本格的な春になって、スヴェルドロフスクの収容所に使いに行きました。
そこの収容所には白髭の阿部さんが移っていました。相変わらず元気なので安心しました。パレーチヤで別れた仲間は全員元気で作業に出ていると聞きました。
炊事班の阿部さんは、ソ連の将校や下士官と接触する機会が多く、ソ連側から情報をつかんでいるようでした。
「もうすぐ日本へ帰れるぞ」
彼は白い髭をしごきながら自信ありげに私にいいました。
「収容所もだんだんスヴェルドロフスク周辺に集結しているんだよ」
私たちがモリニッナヤ、ガガルカとだんだん東へ移動してきたのも合点がいきました。
ある日、ガガルカ作業していると、スヴェルドロフスクからソ連の軍曹がやってきました。
「スタリーク(老人)の弟だそうだな」
何と返答しようか迷っていると、「今度の先発の東京ダモイでお前は帰れ」と軍曹は言います。
阿部さんが自分の弟だと嘘を言って、先に帰還出来るよう根回ししてくれたのです。
しかし、カラドフカからここまで百二十名と共に苦しみ、共に耐えてきたのですから、今さら自分だけ先に帰ることは出来ません。阿部さんに感謝しながらも、先に帰国することを断りました。
ダモイ ダモイ ダモイ
しかし、それからしばらくして、私達収容所全員に、本当の東京ダモイの日が来ました。
みな歓声をあげ喜びました。
待ちに待った日が遂に来たのです。
「全員出発!」
苦しみに耐え、歯を食いしばって生き抜いてこられたのは、今日の、この日を夢に見てきたからです。思えば長い年月でした。
スヴェルドロフスク収容所に何日か滞在しました。
何よりも嬉しかったのは仲間との再会です。
しかし、この間も作業に出ない日は一日もありませんでした。
ここでの労働には、賃金が出ました。ルーブル紙幣をはじめて見ました。バザールヘ行ってパンを買いました。
パン屋の女性店員は、私が日本人捕虜だと知りながら愛想よく応対してくれました。親切ぶりに、すっかりその女性店員のファンになってしまいました。バザールは様々な商品がきれいに整頓されて、並んでいました。収容所の生活は、ランプだったので、久ぶりの電気の照明の明るさがまぶしく感じました。
内地帰還の旅
いよいよ日本へ出発する日が来ました。
自動小銃を肩にしたソ連の兵隊に連れられて駅の構内に入ります。大きな駅で、何台も並んだ列車をくぐり抜け、外れに止められた貨車に乗り込みました。今度は、外から釘づけにはされる事はありません。皆の表情も明るく、お互いに、帰国後の話で盛り上がり、住所のメモを交換していました。
汽車はシベリア大陸を東進します。
八月なのに、もう霜が降り、草は黄色く、ジャガイモの葉は黒く霜げています。途中の山や林は見事に紅葉していました。貨車の窓からの眺めは、苦しい作業に駆り立てられていた時に見た風景とは違って、すばらしい秋景色でした。
行く時に、建設中だった工場は、すっかり完成して、すでに稼働していました。
氷結していたバイカル湖には、波が打ち寄せ、大きな船が浮かんでいます。
東部シベリアの広い耕地には、トラクターが幾台も動いています。コンバインで刈り取った麦はそこで脱穀され、袋に詰められコロンコロンとほうり出されています。
汽車は南下します。
ナホトカ港の駅に到着。
ここは日本人送還の基地となっていました。
シベリアの各地の労働で苦み、疲れはてた抑留者が、内地帰還の喜びに満ちて、つぎつぎと集って来ます。
日本の共産党員でしょうか? それとも抑留者で、ソ連側から認められた民主運動のリーダーでしょうか? ナホトカにようやく辿り着いた我々を、彼らが取り調べます。
討論会をしたり、意見を発表させたり、思想のチェックのような事をしているのです。この関門をくぐり抜けないと、帰還が認められずに、再びシベリア送りになると脅されました。我々の仲間はどうやらお目付け役の眼鏡にかなったのか、全員通過する事が出来ました。
引き揚げ船
ナホトカ港の岸壁に我々を迎えに来た引揚船は「永徳丸」です。三千トンくらいでしょうか。これに乗ればもうしめたものです。様々な重圧から開放されるのです。
夕方乗船。
船内は畳が敷かれていて、横になることが出来ました。
行く時の玄海灘の荒波に引き替え、帰りは、鏡のように静かな日本海でした。
いよいよ日本です。舞鶴港が近づいてきます。しかし港の懐があまりに深く、今かと待ち構える我々を焦らすかのように、なかなか到着しません。さすが旧軍港だけあります。
いよいよ内地です。日本の土地です。
この日の為にと、耐えた苦労が、今報われたのです。感激で熱いものが胸に込み上げてきます。
投降以来お互いに助けあい、苦楽を共にした仲間が無事に日本の土を踏みました。
百二十名の分遣隊、義勇隊の若い人たちもみな無事です。
ようやく日本の土を踏むことが出来、すべての同胞への、深い感謝の念に胸が一杯でした。
舞鶴の宿舎で畳の上に座り、米の飯とみそ汁を何年かぶりに味わいました。ここで、被服と毛布、それに幾らかのお金が支給されました。しかし内地の物価の高いのには驚きました。しばらく、お金が使えませんでした。
いよいよ帰郷の日
ソ連の帽子と支給された服に着替え、命の次に大事だった飯盒とさじ、それに若干の私物を持って、帰還です。
皆、別れを告げ、それぞれの郷里に向かって出発しました。
車窓から見る日本は美しかったです。松の緑が目に鮮やかです。広いソ連の畑に比べ、山の斜面の畑は箱庭のようでした。その中を走る汽車は小さく、貨車に積んである原木も細く見えてしかたがありません。体格のよいロシヤの女性を見慣れていたので、日本の女性は小さく見えます。
茅ヶ崎駅で下車する人がいて、家族の人たちが出迎えていました。再会を誓って、別れを告げました。
無残に焼けただれた東京。空襲で命を落とした人々の事を思うと胸が痛みます。
東京駅が見えてきました。電車も走り、復興の息吹が聞こえるようです。
中央線で、新宿、八王子へと向かいます。
出発したときの面影もない、バラックの立ち並ぶ街。
電車は八王子駅に到着しました。
迎えに来てくれた弟と妹、それに親戚の人達に「ありがとう」とただ一言告げると、後は感極まって言葉になりませんでした。
弟は父の死に水を取り、母親の面倒を見て、戦争中をきりぬけてくれました。弟が家
を守ってくれていることがいかに心強かったかわかりません。
家は空襲を免れ無事でした。仏前で、亡き父に感謝と無事戻れた報告をしました。母はやせて小さくなりましたが、元気でいてくれました。母の手一つで育てられた私にとって宝物の母。よく丈夫でいてくれたとお互いに喜びあいました。毎日陰膳を供えて無事を祈っていてくれたと言います。
親戚や近所の人が集まり、六年ぶりの家庭の宴に無事帰還の実感を味わいました。
昭和23年(1948年)11月12日 東京裁判結審