忘れ難き歳月

昭和20年(1945年)2月4日 ヤルタ会談開催。

 二月上旬、まだ寒い満州に無事帰ってきました。
 入浴、被服の蒸気消毒をすませ、出ようとすると防寒長靴がありません。申し訳ないが、程度のよさそうなのを素早く頂戴して帰りました。軍隊の生活にも馴れてきたと言えるでしょうか?

昭和20年(1945年)2月18日 アメリカ軍、硫黄島に上陸。

 二月の半ばごろだったでしょうか、にわかに西東安に移駐することになりました。
 住みなれた宝清の兵舎をあとに行軍、西東安まで移動しました。着いてみると、すでに部隊が転出したあとでガランとしていました。国境近くの兵力を後方へ集結させているようです。

昭和20年(1945年)2月23日 アメリカ軍、フィリピンのマニラを占領。

大きな兵舎で半月もすごしたでしょうか、三月の彼岸の時に、さらに滴道まで移駐しました。
 滴道の部隊は町を見下ろす山の麓の丘の上にあって、各砲兵隊が結集しています。十センチ榴弾砲、野砲、騎砲、山砲、迫撃砲と大砲のオンパレード、百二十四師団砲兵聯隊です。
 他の部隊から本科の衛生兵が大勢入ってきました。我々補助衛生兵は不要になってしまいました。私は本科に戻り、しばらく現地召集の初年兵の教育助手をしたり、大隊本部で軍隊手帳や功績名簿の整理をしていました。

昭和20年(1945年)3月10日 東京大空襲

営外酒保勤務

 三度目の満州の春
「営外酒保勤務を命ずる」という聯隊命令がでました。
 毎日、公用腕章をつけ、長靴をピカピカに磨いて営兵所をでます。営門を出て二十分あまりも歩いたでしょうか、滴道の街外れの将校官舎にちかいところに「営外酒保」がありました。営外酒保には、軍曹と私の他、朝鮮出身の事務員と滴道炭鉱に勤務する人のお嬢さん。用務員は満州のお爺さん。私は出入りしませんでしたが、売店には、朝鮮出身の女の子が三名いました。
 倉庫の鍵をいくつも預けられ、在庫品の整理をしたり、事務を手伝ったりするのが私の仕事。倉庫には営外者向けの食料、日用品、将校用服地などが山積みされていました。素敵な背広の生地がありました。戸棚にはカメラが何台もありました。軍曹にお願いして、時々甘味品(菓子類)を出してもらい、初年兵や、班の人たちに持って行ってやりました。営内の酒保には、甘味品等はほとんどありませんので、みな大喜びでした。朝鮮の人も良い人で、満州語がペラペラ、日本語も上手でした。
 月曜日になると、満州人のお爺さんが、日曜日に獲った雷魚をあらいにしてご馳走してくれました。とてもおいしかったです。私は言葉が喋れませんので、「シェーシェ」を繰り返すだけで、細かい話は出来ませんでした。

昭和20年(1945年)4月1日、米軍が沖縄本島に上陸
昭和20年(1945年)7月26日、連合国はポツダム宣言を発表
昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分 広島に原爆投下
昭和20年(1945年)8月9日、午前11時02分 長崎に原爆投下
昭和20年(1945年)8月10日、ソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告。千島・樺太に侵攻する。

 満州の夏、柳欄の花の咲くのどかな東満州の静寂を破って、突如、日ソ開戦の報が入りました。

日ソ開戦

 ついに来るべき時はきました。滴道の営外酒保勤務の私は、武装のため急遽部隊に引き揚げました。「大碾子山」に陣地を構築中の部隊は、弾薬受領のため滴道に引き揚げ武装していて、営内はてんやわんやの混乱です。
 私は、不要なものは極力処分し、必要な写真や母からの手紙などを図嚢に入れました。「ピストルだけでは心細いから小銃ももて」班長のありがたい言葉にしたがい、小銃を用意しました。弾薬を薬盒につめ、手榴弾ももちました。「営外酒保を死守すべし」 
 残留隊長はそんな命令を出しました。営外酒保勤務は軍曹と私の二人、守るのは到底不可能な話なので、死を意味する命令でした。
 本隊は弾薬を積んで酒保の前を今夕通過することになっています。
酒保の方へ向かうと敵機が飛んできて、機銃掃射を見舞われました。鶏寧の弾薬庫、糧抹庫はすでに爆撃をうけ、炎上中です。軍曹と二人で、酒や甘味品を酒保前の道路際に積みました。お世話になった朝鮮の人と用務員のお爺さんに置き手紙をして、倉庫にあった背広生地と一緒に防空壕に入れました。きっとこの酒保へ戻って防空壕をのぞくと思ったのです。
 翌日になって、残留隊長は営外酒保の死守命令はとりやめました。今度は、残留隊長と共に列車で本隊に合流せよと言う命令でした。本隊が武装をととのえ、弾薬を積んで、酒保前にさしかかりました。班長と二人で、酒や甘味品を馬上の兵隊たちが、持てるだけ配りました。侵入してきた敵に利用されないよう、酒保の部屋に石油を撒き、火をつけました。お互いにこれからの生死はわからない。世話になった隊長、班長、古兵、そして初年兵とも永遠の別れになるかもしれないと覚悟を決めました。
 しかし、いくら待っても残留隊長と衛兵勤務者はやって来ません。
そのうち列車は、地方人を満載して、滴道駅を出発してしまいました。
遅れて駅にやってきた残留部隊に私たちは合流、隊長以下15名は行き先を変え、徒歩で部隊裏の勝山へ登りました。酒保も部隊の兵舎も炎上しているのがよく見えました。

山中行

 隊長の地図と磁石を頼りに大碾子山目指して行軍をはじめました。滴道の町はソ連軍が侵入したらしく、明るいライトをつけた戦車かトラックか、続々と進んで来るのが見えました。「小人数で、敵の大部隊と戦っても「火に入る夏の虫」、なるべく人家のない山中を歩け」隊長は言います。真っ暗ら闇の山中を無言で歩きました。小休止するも出発するも手探りの合図です。疲労しきっているので、その合図も寝込んでいる者にはわからず、ついてこないものも出て、次第に人数が減っていきます。毎日、毎日行軍がつづいていました。 出発の時、甘味品をすこし持っただけでしたが、さて毎日の野営の生活となると塩のないのが一番閉口です。谷あいにポツリと一軒の民家がありました。塩を所望しました。「ソリメーヨ(塩はないよ)」年寄りの農民は言いました。「大人多多辛苦」それでも、満州人は我々の武器を恐れてか、岩塩を少し出してくれました。お陰でしばらくは助かりました。東満州の山間にはこのように、家を建てその周囲を耕作して、暮らしている農民が所々にいました。塩がなくなる、食料が足りなくなる。仕方なく、このような家を訪れ、無心をしました。大変親切にしてくれ、赤ちゃんが生まれたお祝いだといって、チヤンチュー(酒)を囲炉裏で温めてご馳走してくれた家もありました。

昭和20年(1945年)8月15日 ポツダム宣言受諾の玉音放送

 八月十五日

 梨樹鎮の山中で国境より侵入する、おびただしい数のソ連軍の戦車、トラックの機械化部隊に遭遇しました。狐火のようなライトが途切れることなく続き、地なりがしています。我々の目的地「大碾子山」へ行くにはどうしてもその道路を横切らなければなりません。食料はすでに底をつきました。昼間、偵察しておいた谷底の畑まで上等兵と二人で手探りで降りました。西瓜をいくつか採って、雨外套につつみ、やっとの思いで、頂上までもどりました。甘みのないただ水だけの西瓜でしたが、隊長以下皆で分けあって食べました。昼はひっそりと隠れていて、夜陰に乗じて道路を突破することに決めました。

 山に潜んでいた八月十六日。

「俺はここで死ぬから、無事東京に帰って、家族にこのことを知らせてくれ」隊長は心細いことを言いました。「私は、隊長と生死を共にするつもりで、ここまで来たのであるから、気をとりなおして行けるところまでいっていただきたい」私は隊長を励ましました。 これまで肌身離さず持っていた、郷里の青年たちにもらった寄せ書きの日の丸や家族と教え子からの手紙、写真を、穴を掘って埋めました。
 日もすつかり暮れ、ソ連のトラックは幾分とぎれとぎれになってきました。鉄帽、擬装網に身をかため着剣した銃を手に匍匍で道路に近づきました。戦車、トラックが通過するのを待って、切れ目を狙って、ついに、突破に成功しました。
 道路を越えると、再び急な山の斜面を頂上めがけて登ります。
しばらく登ると「ウオー」という野獣のうなり声がします。ドキッと肝をつぶしました。
「熊らしい」
緊張の一瞬。しかしそれらしいものには遭遇しませんでした。
 七星方面から、砲声が絶え間なく続きます。どうやら本隊が敵と遭遇したようです。
 雨の日は、携帯天幕を敷いて、一枚の雨外套を上等兵と二人でかぶって寝ました。顔のあたりに大粒の雨がハタハタと当たってなかなか寝られません。しかし、泥のように疲れ果てた身体は、何時の間にか、眠っていました。
 敵から遠ざかったので、火は焚けますが、雨で火がつきません。ほそい柴の枝を集めてやっと点火しました。大事に、大事に大きな火に育てます。
 深い湿地帯が続きます。ヤチボーズという植物の株の上を点々と渡って歩きます。踏み外したら大変です。膝まで、腰まで、いやところによると底なし沼かもしれません。慎重に湿地を渡りました。15名で出発した仲間は次々に減って、六名になっていました。雨の中を行進します。雨が汗にまじり、身体の芯までべとべとに濡れています。身体は疲れて、すぐにへたばりそうです。食べるものは何にもありません。いよいよ私もこれが最後かもしれないと思いました。もとよりいつ死んでもいいように覚悟はできています。ですが、こんな山の中で、犬死にだけはしたくありませんでした。
 私の祖父は「天然理心流」の指南免許を取得した剣豪でした。祖先をたどると、武田の家臣だったようで、織田信長に敗れた後は、徳川に仕えていました。
 祖父もまた、幕末、烏羽伏見・長州戦と敗戦の憂きめに会いました。最後は維新戦で上野の彰義隊に呼応して、麻布の寺に立て籠もり、勝海舟の屋敷を守りましたが、力尽きて川口村(八王子市)に引き揚げたといいます。
今、負け戦で戦う身となって、これも先祖の因縁かと、考えもしました。
 敵に蹂躙された谷間の村落を通過しました。梨樹鎮ほどの大部隊には遭遇しませんでした。露営の跡に、USAマークの空き缶が散乱していました。我が軍の通信設備が破壊され、死体が放置されています。兵士の死骸の、□、鼻、目からうじが盛りこぼれています。その臭いは周辺に紛々としています。倒れている馬もありました。
一方、その傍らには、野花が挿してある敵軍の墓があります。失った友の墓穴、花を手向けて、別れを惜しんだのでしょう。命からがら逃げる身では味方の死骸であっても、それを埋めることも出来ず、ひたすら手を合わるだけです。それにしても負け戦は惨めなものです。

大碾子山

 やっとの事で、陣地構築をした大碾子山に辿り着きました。
 白樺の丸太で建てられた仮兵舎を見下ろす山の背に登りました。耳をすますと、小屋からレコードの音楽が聞こえてきます。敵か味方かわかりません。みな着剣して、様子を伺っていました。上等兵が偵察にでます。忍者のように身も軽く、山をするすると駆けおりていきます。報告によれば、そこには、日本兵がいた痕跡がありましたが、今は誰もいないとの事でした。
 「あそこは炊事場だから、食い物がたくさんあるぞ」
一同ただちに仮兵舎めがけて駆けおりました。陣地の倉庫には米、メリケン粉、味噌、醤油の食料が山と積まれていました。そこは陣地構築のための炊事場だったのです。ものすごく幅の広いキャタピラの敵戦車に蹂躙されていましたが、交戦した様子はありません。それもそのはず、友軍は、砲や弾薬を受けとりに本営に向かい武装を整えて、麻山方面へ進撃したらしいのです。ソ連軍が攻めた時は、もぬけの殻だったことになります。
 敵の攻撃がなさそうなので、久ぶりに装具を外し身軽になって、休みました。メリケン粉に砂糖をいれてこね、大きな鍋で天ぷらに揚げました。飯を炊いて開戦以来はじめて満腹感を味わいました。酒もありました。久ぶりに日本酒を一杯やりました。疲れているので酔いのまわりが早いです。
 その夜は安心して、屋根の下でぐっすり眠りました。入隊後まもない初年兵には、倉庫にあった被服の程度のよいものをさがしだして、靴や外套を交換させました。米はもてるだけ持ちました。これまでの経験から塩と梅干しを十分持ちました。「満州は水が悪いから、煮沸した水でなければ飲んではならない」「野戦では、濾過器で水を濾過する」部隊ではそんなことをいっていましたが、負け戦では、沸水車も濾過器もあったものではありません。水溜まりの濁り水でも乾いた喉をうるおすためには、そのまま飲むしかありません。人間の生命力はたいしたもので、だれ一人として、下痢だ、腹痛だというものはいませんでした。生きるか死ぬかの土壇場では精神力がものを言うとつくづく思いました。

 しばらく山間の小道を進んで再び山に入ります。谷あいに部隊の仮兵舎がありました。行ってみると兵隊の貯金通帳が散乱していました。金額にすれば相当なものでしょう。
 さらに南下します。
 工兵隊の道路工事の作業跡らしい「田坂峠」の印がありました。峠の坂はあまり急ではありませんが、いつまで歩いても峠の頂上にたどり着きません。途中で開拓団の老婆が歩けなくなって、木陰に座りこみ、額をこすりつけるようにして、通りかかった我々に水を所望しています。手を合わせて拝んでいます。残り少ない水筒の水をおばあさんに分けてあげました。喜んだおばあさんの顔は今も目に焼き付いています。さらに進むと少年の遺体がありました。小学一年生くらいでしょうか。衰弱して逃げる途中で事切れたのでしょう。
 一日かかって、やっと峠の頂上に到着しました。日はどっぷりと暮れていました。山の上には不思議なことに清水がわいていました。天の恵みです。陣地から持ってきた米を炊きました。我々は飯盒一杯の飯をみんなで分けあって食べました。食料を少しでも食いつなぐためです。教職に復帰したのち、飯盒炊爨の経験は野外活動の指導に随分役に立ちました。ゴロゴロする石の上で横になって休みました。

開拓団

 昼間水を分けてあげたおばあさんはどうしただろう。思うと涙がこぼれました。
 「食料は豊かだし、空襲がないので、満州へは東京からお嫁がくる」
 演習で開拓団へ行くと、そうした気楽な満州生活を謳歌していました。
 しかし敗戦となれば入植以来貯えた財産を捨てて、着の身着のままに、追われる立場です。
 赤ちゃんの泣き声で敵に発見されることを恐れ、お互いの子どもを交換して刺し殺したという話も耳にしました。
 戦争は悲惨です。人は獣にも劣ります。争いのない平和な社会は築けないのだろうか?

 翌朝からまた一日歩いて、人里にたどり着きました。畑が所々に見える丘の上に民家が何軒かありますが、避難したらしくもぬけの殼です。
 一軒の家を宿と決め、久ぶりに屋根の下で装具を下ろしました。あたりの畑でとうもろこしを集め、かまどに火を入れて、備えつけの鍋でとうもろこしを茹でます。他の部隊の者も、食うか食わずの行軍をつづけて、疲れた足をひきずり、我々がいる民家にやってきました。
 この一行に小柄だが恰幅のよいかなり年配の兵隊がいました。白髪まじりの髭を伸ばし階級章を見れば二等兵です。
 「私は、天皇(昭和)と同じ年で、最近現地召集で入隊した者であります」白髪の老兵は張り切った声で答えました。「私は、最近内地から飛行機で、満州へきた者でありますが、内地には相当の余力があります。大いに戦いましょう」その二等兵は髪やひげこそ白いですが、その意気たるや盛んです。我々がむしろ激励される形でした。茄でたとうもろこしを分けてやりました。今夜は屋根の下で眠れると喜んで横になりました。ところが床が熱くて寝られたものではありません。

入り口のかまどの煙が床下をはって暖房する構造になっていたのです。とうもろこしを茹でるのにガンガン燃やしたものですから、たまりません。結局 庭で、馴れた露営です。

 明ければ三十日、さらに行軍をつづけました。
 途中、朝鮮族の部落がありました。彼らは米作りの名人で、食事をふるまってくれました。
 「ここで暮らしたらどうか?」
 朝鮮族の人がそんなことを言いました。

 夕方、谷間に下っていこうとした、その時、行く手に、野営している部隊が見えました。敵か味方か?一瞬緊張が走りました。
 偵察の結果、友軍の工兵隊でした。
隊長が単身、その野営地へ降りて行き、ソ連軍の提示したという勧告文をもちかえりました。
 「明日のうちに投降しなければ、匪賊とみなして討伐する」
 すでに敵の戦車は、この山裾まで来ていました。
「すでに大詔は渙発されたのである。無益な戦闘を止め、ソ連側の指示する地点に至るべし。一二四師団 師団長」
この文章を見て、いろいろな意見が出ました。
「これはソ連側の謀略だ。簡単にだまされてたまるものか」「この文字は間違いなく師団長閣下の筆跡である」一二四部隊に出入りしていた工兵隊の主計将校がいいました。「天皇の詔が下されたのでは、無為に戦うことはない。我々は天皇の命令で應召したのではないか………」大勢は投降に傾きました。
「俺はまだ武器は捨てない。拳銃を譲ってくれ」私の拳銃をねだる上等兵がいました。「満州の人に迷惑をかけるようなことでは譲れない」 私は断りました。「護身のために持つので、けっして満州の人には使わない」あまりに真剣に頼むので、拳銃を実弾とともに彼の手に渡しました。その上等兵は、受け取ると、反対の方角へ一人去って行きました。

 班長の軍曹は、伝来の愛刀をみすみすソ連軍に渡したくないとみえて、草むらの中に捨ててしまいました。

 日も暮れようとするころ、いよいよ投降!。
 皆もうへとへとに疲れきって、早くこの苦しみから開放されたかった事も確かです。
 道のない山中を歩き通し、着の身着のままの露営を続け、見れば、靴は原型を留めず、服はドロドロに汚れ、ズタズタに破れていました。
 水虫で、足が化膿していた隊長は、長靴をかみそりで切って短靴に改造し、やっと歩いていました。
思えば、滴道の屯営を出て、二十一日もの間、飲まず食わずの露営をよくも続けられたものです。
十五人で出発した仲間は、五人になっていました。 

捕虜生活

投降

シベリア収容所 山をくだり、谷間に出ると、そこには、ソ連軍の戦車部隊が待ち構えていました。そこで、我々は武器をすてました。筆舌に尽くし難い気持ちでした。
 間近で見るソ連軍の戦車は巨大でした。キャタピラは幅が広く、大きな砲座、砲身も太く、圧倒されました。これでは、わが軍が、輓馬をはなし、砲を据え、一発発射する間に、何発も見舞われる訳です。兵士の装備も、比較になりません。ソ連兵は丸腰同様に小銃を胸にかかえもつという軽装です。自動車輸送と、馬を頼っての輸送との差は歴然です。日本軍は必要なもの一切を一人一人身につけ移動するのですから大変です。
 さらに我々の目に異様に感じたのは、スカートで戦車の砲身にまたがり手をふる女性兵士の姿です。日本ではとても考えられません。
 武装解除がおわるとソ連軍兵士の態度は横柄になります。
 朝鮮の人が通訳です。「お土産をください。お土産をください」我々の列によってきて、時計や財布を巻き上げていきます。勝てば官軍と言いますが、負けたものはみじめです。私は山の中で拾った動かない時計を渡して、自分のものは腹巻きの中に財布と一緒にしまっておきました。

昭和20年(1945年)9月2日、降伏文書に調印


 自動小銃を胸にかかえたソ連軍の歩哨が我々を引率して、夜行軍です。時々小銃を空にむけて威嚇発射します。
「ダワイー、ダワイー」「ダワイ、ヤポンスキー」
「ダワイ」は行動をうながす言葉で、この場合は「せっせと歩け!」と言うわけです。
 「ヤポンスキー」は日本人ということです。ダワイという言葉は抑留のはじめから聞かされた、我々の胸をえぐりそして圧迫した言葉です。
 翌日一日歩き続けましたが、食料はおろか、水一滴たりとも与えてもらえません。
戦いの緊張からは解放されましたが、水一滴も自由にならないソ連軍の強圧には参りました。
 陽の沈むころ、日本軍の兵舎の倉庫に押し込まれました。
 「ここは、石頭の軍官学校だ」
 誰かが言ってました。
 狭い倉庫の中にぎっしりつめられ、身動きもできません。床はコンクリート、九月の声を聞けば満州の夜は冷えます。十月になればもう冬です。誰かが板をみつけて火を燃やしました。
「ヨッポヨマーチ! ニェハラショー!」
 ソ連軍の歩哨はカンカンに怒って、軍靴で火を踏みけしてしまいました。
 ヨッポヨマーチは、日本語のバカヤローのような意味で、人をなじる時に使うらしいです。
 日本の将校が食料の支給を要請しました。
「時計を出せば、食料をあたえる」
 ソ連軍はそういいました。
「時計を持っている者は、みんなの為であるから提供するように」
 ソ連側と交渉していた将校が言いました。
 みな時計を隠しているのですが、なかなか出しません。私も腹巻きの中に一個持っていましたが、この時は出しませんでした。
 そのうち、誰かが思いきったように、一個 二個と集まり出しました。将校が それを持って、ソ連側との交渉に行きました。これでようやく空腹が満たされるかと期待しましたが、ついに、一粒の食料も支給されませんでした。
 翌日、日本軍の官舎に使役につれて行かれました。
 ロシヤ語の話せる日本の下士官が通訳をしていたので、
 「みなに水を飲ませるよう交渉してほしい」
 と必死で頼みました。
ところがこの下士官は、まるでソ連軍の手先のような態度で、「それでも貴様は日本人か!」 そう怒鳴って、取りあってもくれません。
 昼頃、出発命令が出ました。
疲れ切って身体とうずく足をひきずって、また飲まず食わずの行軍が続きました。
 途中に井戸がありました。幾人かの仲間が走りよって水を飲みました。我もわれもと井戸へ走りました。するとソ連兵は、威嚇射撃をして追い払いました。道路のはじに落ちていた西瓜の皮を拾ってしゃぶっている者もいました。
 こうして到着したところは、牡丹江にちかい液河の旧日本軍兵舎でした。戦闘の傷跡も生々しく、建物は屋根半分が破壊されて、瓦礫が散乱していました。

 ここでようやく、コーリャン、黒パンが若干支給されました。崩れたコンクリートや煉瓦を積んで竈を作り、散乱している材木の破片を燃料に、早速、炊事をはじめました。

液河での生活

 ここでの作業は、薪とりと水くみが主でした。
 ソ連軍の歩哨に引率されて、旧日本軍の官舎まで行き、破損した建物のはめ板の破片等を集め、薪として炊事の燃料にします。
 九月ともなると満州の夜は冷えます。ある時、十数人で薪とりに行き、営庭に戻ると、炊事用の薪が少ししかありません。みんな自分の班の暖房用に持って帰ってしまったのです。寒いのはわかりますが、炊事の燃料に事欠くようでは困ります。
 ソ連軍の許可なしには薪も水も取りに出られないのです。囚われの中の共同生活であることを認識して、行動してほしいと伝えました。

 時々、ソ連兵による抜き打ちの身体検査がありました。日本人の被服、所持品を検査します。被服その他の員数を調べる為なのか、所持品の中に危険物でも隠し持っていないか探すためなのか、寒い営庭に半日くらい立たされることがあります。
水くみの使役に出たときの事です。
 水を入れるドラム缶を馬車につけ、歩哨に監視されながら、川に水くみに行きました。川の近くに着くと、ソ連軍の下士官がぞろぞろとやってきました。
 例の身体検査です。
 私は貴重品を腹巻きに入れ巻いていました。これまで検査でみつかったことはありません。だから安心して、ポケットというポケットを探らせました。ところが、今回は、腹巻きをとれと言い出したのです。日本人が腹巻きをしていることを、どこかで知ったのでしょう。何かの時にと大事にとっておいたお金。働いて初めて買った腕時計、象牙の印鑑、おばがお守りに持って行けとくれた数珠、あらゆるもの奪われました。この時ほど人を恨んだことはありません。
 国境を越え、侵入したソ連軍のトラックは、食料、被服、毛布、机、椅子、日本軍から奪ったあらゆるものを満載して引き揚げていきます。
 軍馬は遊牧のように、ソロソロと群れをつくり、ソ連軍兵士に追われて、国境に向かって歩いて行きました。火事場泥棒同然だと、皆悔しがりました。
 牡丹江の工場からは、残った真喩の屑まで、ドラム缶に詰めて持って行ったといいます。
「ヤポンスキー、トウキョウ、ダモイ」(日本人は東京に帰る)

 ある日突然、ソ連兵からこんな発表がありました。
みんな喜んだのは言うまでもありません。我先にと帰国を希望しました。帰国者希望名簿に偽名を使ってまで応募した者も現れました。涙を浮かべて喜ぶ者もいました。

 しかし、私は、素直に応じない方が良いと感じました。他の仲間とも相談した結果、我々の班は、しばらく様子を見る事にしました。

 トウキョウ ダモイの後、収容所の兵士は、少なくなりました。
 我々は破れ兵舎から、比較的まともな兵舎に移りました。ブリキ造りのストーブを焚いての、収容所生活が始まりました。
 食料はコーリャンの雑炊に黒パンです。ほとんどの者が栄養失調になっていました。たいした労働はしてませんが、身体がふらふらで、住まいの二階に上がるのに手摺に頼らないと、登れません。
 しかし、少ないながらも給食は毎日あったので、身体は序序に回復していきました。

 旅順で謡曲の先生をしていたと言う人がいたので、みんなで教えてもらいました。夜になると、石油を入れた空き缶に、ぼろ布の紐を浸して火をつけ、この明かりを頼りに、先生が、拾った紙に謡の台本を書きます。先生は田村さんと言う人で、収容所生活から、生還した後に「人間国宝」になったと聞きました。まずはじめはお目出度い「鶴亀」を習い、次に日本の養老の滝の物語に似た「猩猩」、極寒の収容所に、雅な謡が響きました。
 若い仲間達は、皆あきれたように、渋い顔をしていました。
しばらく昼は使役、夜は謡曲の日々が続きました。 
 そんなある日、大発見が、
 「営庭のマンホールの中に入ったら、きれいな水が流れて、水溜まりがあった!何かに使えそうだ」といいます。
 誰かが長州風呂をみつけてきました。早速、兵舎の庭に備えつけ、マンホールから水を汲み上げ、薪を割り、風呂をわかしました。
「そろそろ入浴できるぞ。一番風呂は誰にしようか」
 みんなでわいわいやっていると、突然、「出発命令」がかかりました。
 被服、飯盒、水筒など一切のものを持って、営庭に集合します。例の検査が一通り終わると整列して人員点呼です。
 「アジン、ドバー、トゥリー………」
 数字に弱いのか、ソ連兵は、何回も数えて納得がいくまでやります。
結局、せっかく沸かした風呂には、誰も入る事は出来ませんでした。
 検査がすむとソ連の歩哨の引率で、久ぶりの行軍がはじまりました。目的地は不明です。
ソロソロと無気力な捕虜達の行進です。
 着いたところは牡丹江にほどちかい八達溝の収容所で、元満州軍の兵舎でした。それも倉庫でした。
 十一月、満州はめっきり寒く、吐く息が白くみえます。
コンクリートのたたきの上に毛布一枚を敷き、外套をかけて寝ました。
仲間同士背中合わせにくっついて、お互いの体温で温まって寝ました。

 ここでは、まだ軍隊と同じように起床ラッパが鳴り、大佐だという大隊長がいましたが、インチキだといううわさでした。週番肩章をつけた将校もいました。
 囚われの身になっても階級にこだわり、金筋をほしがる、軍隊で身についた悲しい心理です。アンペラ(アンペラ草であんだむしろ)の艶のよいのを襟章に縫いつけて、将校になりすましている者もいました。我々は、これを「アンペラ将校」と呼んでいました。
 一等兵が軍曹に化け、髭をピンと立てていたりします。原隊の古兵と一緒になると、身分がばれて、軍曹が兵長に敬礼したり、とんだ喜劇です。

昭和21年(1946年)1月1日、天皇の人間宣言。

収容所の生活

 八達溝の収容所生活は短期間で終わり、すぐ次の収容所に出発しました。
 どこへ行くのかと思えば、着いたのは元の液河の兵舎でした。
 兵舎に入るとソ連軍に兵舎の清掃作業を命令されました。床板をソ連製の斧でガリガリとこすり、水洗いします。壁は石灰を塗って真っ白にしました。目的は何なのかは、全くわかりません。
 そのうち営門の前にロシア文字の看板が立てられました。通訳によれば、病弱兵の宿舎なのだそうです。我々も病弱兵の仲間に分類されていました。
「凍てかえる ロシヤ文字なる 道しるべ」
 そのロシヤ文字の看板を見ながら仲間の一人が俳句を読みました。

 投降して間もなく、東京ダモイときいて、我先にと出発した人たちは、収容施設もろくに整わないシベリアへ連れて行かれました。寒気と戦いながら、天幕の中で生活し、強制労働をさせられたそうです。食べ物はわずかな量のコウリャンの重湯や大豆だけで、みんな栄養失調になり、バタバタ倒れたそうです。
 そうした健康を害した者が、次々とこの兵舎に送り込まれてきたのです。
シベリアからの重病人は南側の兵舎に入れられました。
 そこには、ソ連の軍医や看護婦がいて、とても親身になって世話をしていると言う話でした。体力があまりに弱って牛乳が飲めない兵士に、看護婦は涙を流して、それでも必死に飲ませようとしていたそうです。そんな話をみんな驚きの表情で聞きました。
しかし、彼らの体力は回復しないまま、毎日多くの人が亡くなりました。厠が屍室になっていました。酷寒の中で、山と積まれた、死骸は冷凍化し、厠はたちまち一杯になりました。
 仲間の一人が亡くなると、幾分元気な仲間が、二本の棒にトタン板をくくりつけたタンカで、厠へ運びます。その人たちの足下もふらついて、坂にかかると、今にも倒れそうです。
 厠に積まれた屍は、春がくる前にソ連軍のトラックに積まれ、いずこへか運ばれていきました。

ここに収容されていたある人から、ノモンハン戦で捕虜になった人の話を聞きました。シベリアの収容所にむかう時に会ったそうですが、その人は、ソ連に帰化して、地方人として働いていたそうです。その時代に捕虜となると再び祖国の土が踏めないと言われてました。という我々もシベリアに連行され「日本人はすでに全員帰還ずみである」といわれたら、その人と同じ運命だと思いました。
 栄養失調症が次第に回復してきました。
この頃になると、収容所では時々演芸会が開かれました。
 大阪出身の花柳流の先生がいて、見事な日本舞踊を見せてくれました。ソ連軍からやっ
と手に入れた布切れで仕立てた着物で女形になって踊った時は万場万雷の拍手がわきました。
 歌も出来、皆で合唱しました。
♪ふぶく夜更けの粉雪サーラーラ
 窓に鳴る夜の思い出は
 遠い故郷の母の顔
 ジット見つめるペチカの火

シベリアへ

 「ヤポンスキー スネークニェート スコーロ トウキョウ ダモイ(日本人は雪が
とけますと、すぐに東京に帰ります)」
 ソ連兵の言葉に収容所内は内地帰還の噂でもちきりになりました。
しかし、4月になって、ブリキ工の使役に行った人の話では、汽車の中で焚くストーブをブリキでつくった・・そうです。
 四月も半ばを過ぎて、受領した被服は、案の定、防寒被服でした。私はシベリア行きを覚悟しました。
 忘れもしない昭和二十一年四月二十九日天皇誕生日でした。
いつものようにソ連軍が、出し抜けに、集合をかけました。
 例によって、被服、所持品の検査にダラダラと時聞がかかります。
 越冬した液河の兵舎を後にして出発です。牡丹江の河原に連行されました。
幕舎の中に川の水をあげて、湯を沸かし、簡易シャワー室が作られました。そこで体を洗うのです。洗浄がすむと千名単位で貨車に乗せられました。
貨車は二段になっていて、その中には日本の捕虜がつくったブリキ製のストーブとブリキの樋の簡単なトイレがありました。逃亡を恐れてか、若いソ連兵が、けたたましい声で喋りながら我々の乗った貨車を、外から釘づけしました。

 行き先は、内地かシベリアか・・?東京ダモイの夢を半分乗せて、不安の内に汽車は国境にむけて出発しました。
 国境を越えた貨車は、我々の希望を断ち切って北にむかって驀進しました。皆の顔色はとたんにかわり、悲観し、涙をうかべる友もいました。時間の経過とともにお互いにあきらめの境地になりました。
 車窓から見える街の姿もロシア独特のものにかわっていきました。人々の服装も一変しました。長い時間走ったかと思うと、今度は停車した駅の構内で、私たちの存在を忘れてしまったのではないかと心配する程、長時間停車。
 食事は黒パンと雑穀の雑炊です。仕方なしに馴れた捕虜の食事です。
 バイカル湖は氷結していて、上をトラックが走っていました。その広いこと大きいこと、湖岸の駅で停車し、車中で一泊しました。翌朝もまだバイカル湖が車窓から見えていました。途中、入浴にソ連兵に引率されていきました。そこは広い建物で、なかにトイレくらいに仕切られたシャワー室が無数に設けられていました。その中でシャワーを浴びるのです。ソ連では集団輸送が多いために、このような一度に大勢が入れる入浴施設があるのだと聞きました。途中で我々と同じような貨車にのったソ連の地方人を見ました。「あれは罪人をのせて、流刑地にむかう貨車だ」
 誰かが物知り顔にいっていました。
ゆられゆられて、貨車はウラル山脈にちかいシベリアの中心都市スヴェルドロフスクに着きました。
 ここで五百名が下車しました。スヴェルドロフスクは後に、エカテリンブルグと改名されています。
 我々の貨車は、ここで切り離されて、さらに北に進み、北緯六十度ちかくの「パレーチヤ」という所で降ろされました。
 駅といっても白樺林の中の一軒屋、まわりには、ほとんど人家はありません。

抑留生活

 駅から木道をおよそ一キロ歩いた所に、丸太の先端を尖らせた柵で厳重に囲われたラーゲリ(収容所)がありました。四隅に監視のための望楼が設けられ、見張りの歩哨が小銃を手に立っています。その中に丸太造りの小屋がいくつも立っていました。最近までドイツの捕虜がいて、彼らが建てた小屋です。ドイツ兵がまだ何人か残留していて、われわれを歓迎してくれました。小屋は半地下で窓がちょうど地表くらいです。ドイツ兵は紙を切りぬいて窓ガラスに飾りをつけたりして、苦しい中にも心のゆとりを見せていました。二、三十名のドイツ兵がしばらく、作業をしていました。指で日の丸とハーケンクロイツをかいて握手したり、手まねで、日独友好の昔を示し合ったりしていました。
 ウラル地方はすっかり雪が解け、作業にはもってこいの季節になっていました。
 収容所に入って、しばらくは、医務室で仕事をしました。日本の軍医が一人、衛生兵が三人、ドイツの衛生兵が一名いました。
 ドイツの衛生兵とは、身ぶり手ぶり、覚えたてのロシア語の単語を並べ、意思を通じあいました。
 彼はドイツの航空将校で、飛行機を背にした颯爽たる写真を見せてくれました。日本のアンペラ将校と違って、ドイツでは将校が兵隊になりすましているといいます。戦争責任に対する考え方が違うのか、それとも国民性の相違なのか。
 我々の課せられた労働は、伐採です。
 これにはノルマが課せられました。ノルマは労働の基準量です。
 部落(コルホーズ)のカントーラ(事務所)へ行くと、壁にこの基準表がはってあります。ロシア語は読めませんが、性別や年齢によって、ノルマが違うようです。
 我々には、薪を切り出し、一日に一立方メートル積むノルマが、一人に対して課せられました。
 二人一組になって、向こう手前に柄のついた二人引きの鋸一丁と斧(タポール)二丁を入り口前の器材庫から受けとって作業に出ます。
 薪の長さは一メートルで太いものは二つあるいは四つに割って、一メートル四方の高さに積めというのです。二人では、二立方メートルということになります。
 このあたりは、白樺、どろの木、赤松が伸び伸びと育った良い森林で、果てしなく続いています。木の丈は二十メートルほどもあり、一本倒すだけで、相当の薪の量になります。
 赤松は素性がよく真っ直ぐで、家屋の材料(ログハウス)も電柱もすべてこの赤松
です。松の伐採は夏はヤニが鋸を食って大変です。冬季は冷凍状態なので、斧を打ちこめば、見事に割れます。
 鋸の使い方になれるまでは大変でした。それでも一人一立方メートルは、二人で精
出して働けば、早いものは昼ごろには終わります。各組が競争になって作業をかたずけます。
そして余った時間に野草をつんで飯盒で炊いて食べました。中には薪の上で昼寝をする
ものまであらわれました。
 「ヤポンスキー 火を消せ」
 巡視にまわってきたソ連の監督が叫んで、足で火を踏み消します。
 「ヨッポマーチー ヤポンスキー ヒートリー」
 監督はカンカンになって怒っています。ヒートリーとは狡いという意味らしいです。作業を怠けて、遊んでいると怒っているのです。ノルマの百パーセント以上の仕事を要求しました。
「捕虜がそう働くことはない。ろくな食い物も食っていないのに」
 これは、捕虜である日本人の言い分です。
 と言うわけで その後もノルマ以上の作業はしませんでした。
ソ連側の風当たりは徐々に強くなって、ついに二倍のノルマが課せられてしまいました。
 ふたりで四立方メートル積むとなると体力のない、作業になれない者にとっては大変でした。夏は日が長いですが、冬は太陽が南の林の上をかすめて通る程度ですから大変です。

 伐採地の一区画が終わると、各組が積みあげた薪を道路ぎわまで担ぎだします。
 日本人は組毎で競争になり、他の組に負けまいとフーフーいいながら、汗だくで運びだします。
丸太も細いものなら一人で担いでしまいます。
 ところがドイツ人は、リーダーの合図で、「作業開始」「作業止め」と見事な統制のもとに集団行動をとり、ノルマを一日かかってこなすのです。日本人が一人で担ぐような丸太でも四、五人で足を合わせて、ヨチヨチと運びます。
 ドイツ人の集団行動、統制ぶりは、さすがでした。忠勤を励んで、手柄第一の日本軍隊とは違います。敗戦後、抑留の身となった今、連帯感は、乏しくなりました。

 そんな、ドイツ兵の捕虜は、いつのまにかどこかへ移動してしまいました。

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あとがき

Scan10071.jpg シベリアの他の収容所では、抑留中にも軍隊にも劣らぬ制裁があったり、民主運動の嵐が吹きまくった所があったり、記録を見ると、私の抑留生活に比較して、極めて苦心された様子が窺われます。今にして思えば、よき指導者を得て、苦しみの中にもよく協力し、無事に内地の土を踏むことが出来たことに対し只感謝あるのみです。
 今は故人となられた皆様の御冥福を心からお祈り申し上げるとともに、お世話になった同行の諸氏に心からお礼を申し上げる次第であります。
 昭和二十三年復員後、学校教育、社会教育と目まぐるしく過ごして参りました。
三十九年間の学校教育から退職後、ただ思い出すままに記憶を辿って、「想い出の記」として書きとめてきました。たまたま教え子の一人がそれを読み、せっかくだから本にしようということになりました。拙い原稿を整理し、このような小冊子に纏めていたたきました。思いも寄らぬ冊子の完成にただ感謝あるのみです。ここに改めて、若林君のお骨折りに対し深甚なる敬意を表すものであります。

平成十二年十月六日
                      楠 正徳 八十五歳