忘れ難き歳月 楠 正徳著
銃器の手入れ
夕食が終わると兵器の手入れです。銃は三八式騎兵銃で、よく磨き、油布をかけ、銃
口を電灯にすかして見て、きれいになるまで手入れします。おわると引金をあらためて銃架にかけます。
古兵はじろじろ見ていて、終わると検査をします。
引鉄をひいたままの銃があると大変です。引き金のことを軍隊では引き鉄といいます。
「三八式騎銃さま、引き鉄をひいたままで申し訳ありませんでした」
銃架の前に座らされて、頭を床につけてあやまらせられます。銃には十六の菊のご紋章がついているので、粗末にしてはならないというのです。
点呼前に、厩へ行き、夜の飼つけをします。
班ごとに、室に整列し点呼を受けます。班長は、班の異常の有無を報告します。中隊の曹長より諸注意と明日の勤務、使役がいいわたされます。
点呼がすむと消灯まで中隊事務室で、眠い目をこすりながら「用務令」の勉強です。
♪新兵さんはかわいそうだな………
♪また寝て泣くのかよ………
消灯ラッパがなっても一日が終わったわけではありません。
消灯後待っているのは、古兵からのネチネチお説教です。ビンタの方がよっぽどましだと思ったこともありました。
時々 内務検査があります。個々の兵の内務、すなわち、洗濯とか被服の手入れ、あるいは身のまわりの整頓、銃剣の手入れなど、かたっぱしから調べます。
軍服(上衣、袴)、尋常外套、携帯天幕などは、銃剣の長さにあわせて、新聞紙を入れて、きれいにたたみ、四角に積みあげます。そのわきにけんどんのついた小物入れがあり、軍足、軍手、襟布などきれいに洗濯してきちんと積みます。洗濯してないものをごまかして積んであったりすると大変です。
靴の検査では、磨き方の悪い者がいると、靴紐をくわえ、各班をはってまわらせられたり、ペチカにかじりついて、蝉の鳴きまねをやらされます。揚げ句の果てに、廊下に整列させられて、ビンタがとびます。
他の班の古兵はそれを見ながら大きな声ではやし立てます。
歯磨きの状況を調べる、歯ブラシの検査もあります。支給された新しいブラシを古兵の使い古しのものと交換してもらっておかないと、磨いてないと見なされます。初年兵はのんびりと歯を磨いている時間はありません。
枕被いが汚れていると赤のチョークで金魚の絵が描かれます。洗濯の水を欲しがっているという洒落です。
銃剣、鉄帽、防毒面、飯盒などの装具は整頓棚の下に決められた順序にかけます。
非常呼集がかかると暗やみで武装しなければならないからです。
新兵にとって慣れない洗濯は一苦労です。
酷寒の地での洗濯は、入浴時にすることを許されています。新兵にとっては、入浴というよりも洗濯で、冷気のためにもうもうと立ちこめる湯気の中で、まず洗濯です。
肌着、襟布、靴下など、洗ったものを盗まれないように気を配りながら、体を洗うのもそこそこに、ザブッと浴槽につかり、急いで上がります。急いで服を着て、洗面器にいれた洗濯物をもって、外に出ます。髪の毛がメリメリと凍ります。手ぬぐいは逆さにしても立つほどにたちまち凍ってしまいます。
慰問団
ある日、内地から慰問団がやってきました。
初年兵は、班長に引率されて、宝清の街の外れにある階行社と言うところにに慰問団の見物に行きました。慰問団はテーマソングのように「♪花つむ野辺に陽は落ちて………」と何度もくりかえし演奏していました。
漫才、百面相など愉快な出し物に、しばし苦労も忘れ、内地からはるばる寒い東満州
の第一線まで来てくれた出演者に感激し、感謝しつつ帰営しました。
兵舎に帰ると、待っていたといわんばかりに、「初年兵集合」がかかります。
「貴様らは、今夜の夜飼(夜の馬の世話)を誰がしたと思う」
つまり、馬の飼つけを古兵にさせて、初年兵のぶんざいで、慰問演芸などを見に行
くのは何事だ! というのです。
軍隊では言い訳は聞きません。
「内地からはるばるここまできた慰問団に対し、班長の命令であるから、行かな
ければならないと思って、行かせてもらったのであります」
ビンタ覚悟でそう言うと、古兵は怒りもせずに注意だけで、解散になりました。みんなほっと溜め息をついたのは言うまでもありません。
食事当番
初年兵は二人一組みになって、順次食事当番をします。
炊事場から食缶で食事をあげ、班員の食事をつけます。そのあとその日の厩当番に食事を運びます。
厩には仮眠所があって、各班の古兵がいっしょに食事をとります。
「今日の食事当番は、来い!」
厩当番から勤務あけになった古兵がえらい剣幕で呼んでいます。
何事かと思って、食事当番の相方と飛んで行きました。二人が並ぶと、物も言わずに、二つ、三つビンタがとびました。目から火が出るといいますが、本当にパチパチと火花がとびました。
弁当に漬け物が入っていなかったのがビンタの理由です。他班の古兵の前で恥ずかしかった、以降はよく注意せよということでした。
食事がすむと、食缶を炊事場に返納します。洗い方が悪いと炊事勤務の班長にどやされます。
こうして「初年兵は起床から、消灯までオドオドと駆け足で一日を暮らすのです」
軍隊では一切の物の名称は日本語(軍隊用語)です。金だらいは「洗面器」、スリッパは「上靴」便所は「厠」。
うっかりスリッパと言おうものなら、「貴様、日本人か? 日本人なら日本語を使
え!」とまたビンタが飛んできます。
上靴と言えば、自分のがなくなって、困った事がありました。すると戦友殿がどこかで手に入れて、二階のベッドまで持ってきてくれました。墨汁で真黒に塗り黄色のエナメルで名前と印を入れてくれました。有り難くちょうだいしました。
「盗られたらすぐ盗り返す」ここでは、これが常識のようです。
初年兵にとっては、至難の業です。
教え子からの手紙
ある日中隊事務所に呼ばれました。
ドアをノックして「入ります」と言って入り、直立不動で名乗りをあげます。
曹長殿は奥まった机の椅子に腰かけて、眼鏡ごしにギョロッとこちらをにらみつけ「手紙がきているぞ」曹長殿は、手紙を開封して読めと言うのです。見ると、ピンクの模様のついた封筒でした。
私は開封して、大きな声で読みました。
季節の移りかわりや村の近況などが書かれた、春に、府立第四高女に入学した教え子からの手紙です。
何を期待したのか分かりませんが、さすがに、途中で曹長は「もうよし」と言いました。
手紙を急いで封筒にもどし、挨拶をして事務室をでました。
勉学に励み入学した学校で、教え子たちは、毎日工場で勤労奉仕にはげんでいるといいます。個人の夢も希望も、戦争によって奪われる彼女たちの事を想うと、居ても立ってもいられない気持ちになりました。
補助衛生兵
一期の検閲がおわると「星」がひとつふえ、二等兵から一等兵に進級しました。そして、砲手、御者、蹄鉄工、縫装工など編入先が決められます。
「君は、補助衛生兵の試験を受けろ 学校の先生だから、除隊してからも役に立つと思うぞ」
中隊の曹長が奨めてくれました。曹長の温情に感激しました。
貧弱な体格で、体力もないので、砲手班では足手まといになりかねません。衛生兵として味方のためにお役にたとうと受験することを決めました。
「おまえが衛生兵になったら、段列の大砲はどうするんだ?」
古兵は私の受験の話を聞いて怒っています。二番砲手の教育を受けていたので、抜けられては困ると言うのです。私はあやまりました。そして、衛生兵の重要さを訴えて了解を求めました。
簡単なテストの後、衛生曹長の講義を受けます。
さらに 満州第一一七部隊(陸軍病院)において三か月の教育を受けることになりました。 騎兵、輜重などの部隊から選抜された初年兵があつまり、毎日、学科、実技、教練がおこなわれました。
病院勤務の古兵は、ひがみからか、やけに厳しく、つらく当たります。講義中の我々を、隣の部屋の節穴から覗いていて、学習態度にけちをつけます。
部隊の兵隊は、中隊に帰れば、厩作業など重労働が待っているので、講義中に居眠りする者もいます。
教官殿は優しく、産婦人科の医師でもあるので、性病の話等を交えて眠気を覚ましてくれます。これが厳しい教育で鍛えられた古兵にとっては堪らなく、しゃくにさわるらしいのです。
講義が終わると、「初年兵集合」がかかります。廊下に一列に整列し、またまたビンタの洗礼を受けます。
「そんなやり方では生温い。ハルピンの気合いをかけてやる!」
ハルピン教育隊の教育をうけてきた兵長が、竹刀をもってあらわれます。一人ひとり
一歩前にでて、首を前へだすのです。兵長から竹刀のお見舞いをうけます。首を引っ
込めたりすれば、またやられるのです。
「ありがとうございました」
竹刀でなぐられた初年兵は、兵長に丁寧にお礼をいわなければなりません。
実地演習では、タンカを使った演習、毒ガスが使われた場合の激しい訓練もありました。「一五三部隊の補助衛生兵の成績は優秀であった」
検閲をすませ、お褒めの言葉をいただいて、衛生兵教育は終わりました。
中隊に帰ると「ヨーチン臭い」といわれ、病院へ行くと「馬糞臭い」といわれ、二重に受けた初年兵教育はビンタの嵐とともに一段落しました。
満州の春
ようやく、乗馬にも慣れ、満州の春の荒れ野を馬で駆けました。
五月、それまで氷で閉ざされた満州に、春がやって来ます。
厩当番で、徹夜の勤務をした夜明け、裏の大盛山には、見違えるほどに緑が萌えています。日々明るさをまし、青葉も次第に濃くなっていきます。
ツツジをはじめとしたさまざまな野花がいっせいに咲きます。
馬上で思わず居眠りするくらい、ポカポカと暖かくなります。
「こんな場所で、暮らしていけるのか?」
十一月に入隊した時には真剣にそう思いましたが、酷寒の冬を過ごして、むかえた満州の春は本当に素晴らしかったです。
アヤメ、百合、芍薬などの寒さに耐えていた、生物のエネルギーが一斉に活動を開始したのです。「インチューホア」は春のはじめに枯れ草の中に花を開きますが、これが内地でいう翁草です。
聯隊本部の前にあるアンズの木は、春が来ると見事なうす桃色の花を咲かせ、殺風景な営庭に春の訪れを告げます。
慰問袋
家から慰問袋が届きました。
母親の仮名釘流の筆書きには、「銃後は案じるな」 「しっかりご奉公せよ」と一つも泣きごとはありませんでした。そして、慰問袋には、私の好物の餅と豆菓子が入っていました。その心づかいに涙がこぼれました。餅と豆菓子をみんなにも分けて食べ、母をはじめ家族の温情を深くかみしめました。
医務室勤務
中隊に残った本科の同年兵は、上等兵に昇級した者も、相当厳い教育を受けたようです。それに比べると私たち衛生兵は、まだ楽でした。
点呼がすむと医務室へ行き清掃、入室患者の体温、脈拍を測定するのが朝の仕事です。そして、朝食は中隊に帰って食べます。
私は、薬室勤務でした。軍医の書く処方箋に従い、衛生曹長から伝票をもらって、薬物受領に陸軍病院へ行き、薬を調剤します。
陸軍病院は別天地です。白衣の天使が大勢、あわただしく働いています。薬品が揃うまでの間、一緒に衛生兵教育をうけた仲間と、内地の話をするのも楽しみでした。
急患が出ると軍医の指示で、陸軍病院へ入院させることもあります。腹をこわす人が結構いました。
夕方になると、その日の演習で怪我をした兵隊の治療をします。化膿した傷の切開もしました。
「これくらいで麻酔を打つようでは、戦争には行けない」
ベテランの上等兵は度胸がよく、麻酔注射もせずに傷を切開していました。
普段威張っている軍曹も曹長も、病気には勝てません。頑固で有名な古兵が胃痙攣を起した時は、泣きっ面で、「痛み止めの注射をしてくれ!」と大騒ぎしました。
軍医は月に一回、宝清の町の花街に出張、慰安婦の性病検査をしてきます。
「性病を持たないものは一人もいない、現在陰性のものだけが店に出ているので、外出しても決して花街には立ち入らない方がよい」
軍医は、検査のデーターを示しながら忠告してくれました。
殊に梅毒は、自分一人では済まず、子孫まで影響を及ぼすことは一一七部隊の教育でもよく聞かされていました。
日曜日に外出者が帰ってくると、よく医務室で尿道の洗浄をしてやりました。
宝清の町は、東方の平地にあって、町の西部、山岳地帯の裾に駐屯してた部隊とは、かなりの距離がありました。
部隊は 騎兵旅団、陸軍病院、騎兵隊、騎砲兵隊、輜重隊と並んでいました。
北に大盛山、南に小盛山があり、南東に「完達」の山々が尾を引いて、東へ向かえば、暁河正面でソ連領です。この盆地の中心が宝清で県の中心地です。
山裾をおりたところに将校官舎、軍人会館があります。町は四方を土塀でかこまれ、東西南北に門があります。
日曜日、宝清の町に外出しました。すぐそこに見える街も、歩いてみるとなかなか遠かったです。各地から来る満州人のマーチョが鞭音をたてて、荷物を運んでいました。ここには「東北飯店」という中国人の経営する食堂があって、そこのレストランで我々兵隊はギョーザなどの安い料理を食べました。日本人が経営する本屋もありました。
日本人の経営の写真屋で写真を撮りました。入隊するまで虚弱体質でしたが、規則正しい生活と厳しい訓練、ビンタの嵐のおかげで、元気そうな写真が撮れました。
宝清の街には「日満」と「白龍」という有名な店があって、古兵たちはけっこう通っていたようです。
♪宝清良いとこ誰が言うた
向かう日満 角白龍
尾のない狐が住むそうな
わしも二、三度だまされた。
♪腰の軍刀にすがりつき
連れて行きゃんせ西山へ
連れて行くのは易すけれど
女は乗せない騎砲隊
♪ホントニホントニご苦労ね!
慰安会の時、よく古兵が歌っていた替え歌です。「日満」と「白龍」は赤線の料理屋だったようです。
昭和18年(1943年)、大東亜会議が東京で開かれる。
にわとり部隊
部隊に新しい部隊長が赴任してきました。
百戦錬磨の新部隊長は金鵄勲章を持っているので、祝祭日の儀式には勲章微章全部佩用の命令を出しました。勲章をもっている古兵や下士官は、急きょ自宅から取り寄せました。
また、新しい隊長は夏の間、「物資愛護」というスローガンを掲げて、営内で靴をはくことを禁止しました。
厩作業も素足でやります。
私は、補助衛生兵ですから、医務室への行き帰りに通路の古釘やガラスの破片を黙々とひろってあるきました。たいした怪我もなく一夏は過ぎました。
朝礼も裸足で集合します。聯隊長は自分の歩く所に一メートル幅くらいに川砂を敷かせ、その上を赤い刀緒(左官は赤をつける)をちらつかせ、裸足で歩きます。後ろから当番兵が軍刀を捧げてこれに従います。
なんとも滑稽な姿です。
後で当番兵に足を洗わせるのだそうです。
夏の入浴は水風呂になりました。満州の地下水は井戸の底に氷があるくらいですから、夏でも、冷たくて入れたものではありません。水で体を洗って、そこそこにとびだします。
これを見たよその部隊からは、「にわとり部隊」と呼ばれました。
冬は冬で、衛兵所の屋根に赤旗が上がらない限り、防寒被服の着用はまかりならぬという命令でした。
そのくらいですから、兵隊の外出は禁止になり、街は縁遠くなりました。
「聯隊長がこんなに部下を厳しく扱うのは、大佐になるための手立てだ」
兵隊の多くがそんな陰口をきいていました。
隊長の自慢は、備前の名刀と書道でした。
ある日 そんな聯隊長が腎臓炎をおこして入院しました。私は命令をうけて、隊長の当番兵と一緒につき添いをしました。隊長は、奥の個室のベッドで、兵隊は手前の部屋です。
「今日は隊長のご機嫌はどうだ」
ワンマン隊長にみんなビクビクして、将校や下士官は、まず我々の控室で様子をさぐります。
権力をかさに威張ると部下の心をつかむことは出来ないと思いました。
私は、比較的進級がスムーズだったので、精勤章は一本しかつけていませんでした。
精勤章は、進級をはずれた者の中で、成績の良い者にあたえられたようで、兵隊は精勤章のことを「馬鹿印」と呼んでいました。
「お前は精勤章が一本しかないのか。部隊へ行ってもらってこい」
病院で、機嫌のいい聯隊長がそんなことを言いました。
部隊に帰り、聯隊本部へいって、その旨を話すと、簡単に精勤章一本がもらえました。みんなが苦労をしているのに、こう簡単にもらえるなんて、申しわけない気持ちでした。
冬期演習
酷寒の東満州に大きな演習が展開されました。
中隊から参加する者が選抜され、出動準備を整えます。冬期だけにその準備は大変です。
袴(ズボン)の上に防寒半袴という膝までの裏毛のものを着けます。その上に防寒外套で身をかため防寒帽をかぶります。長靴は大きなフェルト製で、それに拍車をつけます。
水筒、防毒面を肩にかけ、騎銃を背おい、帯剣をつけ、帯革(バンド)には薬ごう、防塵眼鏡をつけます。
乗鞍も平時とはちがいます、鞍の後部に雨外套を細長くまいて、携帯天幕といっしょに微錠でとめます。馬糧嚢といって、馬糧一食分を入れた袋をつけます。鞍の前には、雑嚢を馬の首筋に振り分けにつけます。雑嚢の中に小物をつめ、その上に鉄兜をかけます。
完全武装をした乗鞍は重くて馬の背にあげるのに苦労します。こうした武装の仕方は経験豊かな古兵がよく教えてくれました。
古兵は防寒半袴の下に小さな座布団のようなものを股の前面につけろといいます。
「せがれが凍傷になるぞ!」
古兵に言われて、みな本気に用意をしました。
あぶみにも布をぎりぎり巻きます。金属から冷え込んで凍傷をおこすからです。
砲車、弾薬車が、凍てた東満州の道路を車輪の音も勇ましく出発。
入隊の時 宝清までトラックで走った道を逆に、隊列を整えて行軍です。
途中、土山に一泊します。
八垂形天幕を張り、その中央でストーブを炊きます。燃料は木炭で不寝番が炭を補給します。ストーブに足をむけ、放斜状に寝ますが、まるで肩から水を浴びせられるかのような寒さです。
行軍中、水のあるところで小休止がかかります。ただちに下馬して、水嚢をもち、馬の
ための水くみです。川は一面に氷結し、厚い氷にとざされています。古兵は鉄棒を用
意していて、真っ先に氷を砕き、穴を開けてくれます。水嚢をこの中に入れ、水をくみ、
水飼、飼つけをすませないと小休止になりません。ボヤボヤしていると「出発用意」の
号令がかかります。
「乗馬隊は、行軍中が休憩だ」
古兵はそういっていました。
飯盒炊さんの時などは、燃料に悩まされます。凍ったコウリャンの殻などは、シュウシュウとくすぶって、燃え出すまで容易ではありません。そのうち「出発用意」になれば、半煮えの飯を食って出発することになりかねません。古兵はさすがに馴れたもので、満州人の家に入り、炭火をたいて、ぐっすり眠るのですが、中には一酸化炭素中毒にやられたものもいました。
小休止の時、軍刀を忘れた見習い士官がいましたが、演習中に凍傷にかかりました。
「神経のにぶいものが凍傷になるのだ」
気の短い衛生曹長の口癖でした。
軽い凍傷にかかり、幕舎へ治療にきた兵隊もいましたが、そう言われてみるとそんな気してきます。
夜行軍の時等、防寒靴のなかで足の指をいつも動かしていないと凍傷になってしまいます。常に神経は敏感に働かせなければなりませんでした。
満州の雪は粉雪で、サラサラです。風がふくと雪煙をあげてどこかにとんでいってしまいます。ところが山の中に入ると雪は深く、防寒長靴の上まであります。
野営の場所はかなり高い山の中腹で、風が強く、体感温度は想像以上です。雪を掃いて天幕を張り、天幕の周囲に雪を積みます。ストーブのうえで雪を溶かして水にします。
馬は外につないだままですが、顎からつららが下がるほどで、口のまわりは、息が真っ白に凍っています。足は、雪が蹄鉄の中に入って凍り、コチコチのだんごになっています。鉄匙と呼ばれる鉄のへらでほじりとってやらなければ骨折してしまいます。
起床すると炊飯、天幕撤収、出発用意と目のまわるような忙しさです。その中で、自分の事はしっかり始末し、必要なものは確保しておかないと行動に支障をきたし全体に迷惑がかかります。
鞍の整備もこまかい作業は素手でやらなければなりません。そのうち指先が針で刺すように痛くなります。これは凍傷の前兆で、この時、指を摩擦しないと凍傷になってしまいます。両手を股の間に挟んでキュッキュツとこすります。厳しい自然、冬将軍との戦いです。
「出発!」
いよいよ演習も山場、払暁戦です。砲車、弾薬車を引いて、駆け足で山をくだります。台地上にさしかかると、「右撃方砲列」の号令がかかります。馭者は馬から飛び下りて、輓馬さくを外し、馬を後方へ退避させます。
砲手班は直ちに砲列布置、砲撃命令を待ちます。
満州の払暁の空に砲聾はゴウゴウと響きわたり、騎兵は抜刀して、突撃を敢行しました。 騎兵の戦闘を高い丘の上から見学しました。
♪やってもやってもだめだ………
払暁戦の演習はラッパの音とともに終わりました。
太陽は冷たい満州の野を眩しく照らし、乾ききった空気が肌を刺します。
明治四十一年式(口径七・五センチ)騎砲という骨董品級の大砲ですが、これでも匪賊が町を襲う頃は、匪賊討伐に活躍しました。お陰で宝清の町の治安が保たれたといいます。 最後は、小休止中、戦車の襲撃があると言う想定の演習。蛸壷にはいって、アンパン型の模型の地雷を戦車めがけて投げます。戦車が踏めば爆発する仕組みです。
一人乗りの豆戦車が機銃を撃ちながら通過して、すべての演習は終わりました。
延々とつづく騎砲の隊列は、時には猛烈な吹雪、あるいは寒気と戦いながら、露営の旅を黙々とつづけ、宝清の部隊まで帰りました。
昭和19年(1946年)7月、サイパン島陥落。
父の死
昭和十九年の夏のある日、中隊長に隊長室へ呼ばれ、父の死を知らされました。隊長は心配して、慰めの言葉やはげましの言葉をかけてくれました。
私は生まれてすぐ父と離れ、母親の手一つで育てられました。
昭和十六年に父親と一緒に暮らすようになったのです。それからすぐ出征したので、思えば縁の薄い親子でした。
入隊する時に持ってきたお金と外出禁止で使い道のなかったお金を貯金しておいたので、二百円を払い戻し、百五十円を家に送り、五十円を郷里の小学校に寄付しました。
この頃すでに、物資は欠乏していました。医療兵器が平時用と戦時用の二組ありましたが、一組は南方へ送りました。国境近くにあった鉄舟まで貨車で輸送されていきました。
激戦が伝えられた南方行きを志願して、身体検査をうける兵隊もいました。
何も無理をして、南へいかなくとも、いずれこの満州で戦う時が来る。スターリンは必ず、軍を満州に進めるだろうと考えていました。
食料は底をつきました。大豆、コーリャン、野菜を米と一緒に炊くので、おいしくはありませんが、空腹を満たす為には仕方ありません。
肉が不足するので街へ犬とりの使役がでます。五、六名が一組になって、かますを背負い小銃をもって、街をあるきます。赤犬を見つけても、かわいそうでつかまえることができません。
「ゴー、メーヨ?(大はいないか?)」
と満州人に尋ねても、口を揃えて「メーヨ」と答えます。愛犬を差し出す人などありません。
陽も西に傾くころ、大きな野良犬を一頭みつけました。
命令遂行のためには、犬を殺すのもやむを得ません。針金でつくったひっくびりをかけましたが、猛烈に抵抗して、手がつけられません。やむなく小銃をみけんに一発。グッタリしたところを、用意したかますに押し込んで背負って帰り、炊事へおさめました。
その夜は、消灯後もなかなか寝付けませんでした。
日本軍が食料不足に陥っていることは、敵にも知られているはずです。翌日の食事に上がった汁を食う気持ちは「許してください」と心中で拝みながら食べました。
聯隊本部の玄関に輝いていた菊の御紋章が取り外されました。
いよいよ逼迫してきた事態の深刻さを誰もが感じました。
昭和20年(1947年)1月2日 米艦載機500機が台湾・沖縄を空襲
昭和20年(1947年)1月18日 最高戦争指導会議で本土決戦体制を決定。
馬匹輸送
上海まで、馬匹輸送に行ってきました。各中隊から集めた馬を馬匹名簿とともに輸送するのです。
どこの中隊でも良い馬は出しません。集まったのは、かむ、ける、後っ引きなどの癖馬がほとんどです。
「興凱」駅まで、三十里を行軍し、駅で馬を貨車に乗せました。貨車の中央に干し草を山と積み、その中で我々は寝て行くのです。貨車の天井は真っ白く凍っています。銃身が凍っているので、錆びるのを防ぐために白布で巻きました。列車内での水飼、飼つけは容易なものではありません。
ハルピン駅を通過
地平線に陽の沈む、赤い夕日の満州平野を南下します。各地の駅に大豆の大きな山がいくつも露天づみになっていました。満州の冬は雨が降らないのです。
山海関をこえていよいよ支那大陸です。万里の長城も車窓からかすかに見えました。
乾燥した気候のこの辺りの家屋は、土で固めたかまぼこ型をしています。家々は土塀でかこまれ、家畜もいて、治安は保たれているようです。
汽車が止まると、子どもが饅頭を持って「リヤンガー(二個)十円」と呼んでいます。
靴下、タオル等と物々交換をしている古兵もいました。途中の駅では、町の治安を守る住民の自治組織か、鉄道線路にむかって、所々に警備の人が立っていました。
黄河はさすがに雄大です。日本軍の作戦のために流れを変えられたといいます。黄色い水があふれていました。列車はさらに南下しました。
「敵機の襲来があるかもしれない」
上官の言葉に緊張しましたが、何事もなく汽車は進んでいきました。
やがて揚子江にさしかかろうとした時、敵機の空襲をうけました。タッタッタツという機関銃の音がするので、友軍の対空射撃かと思いましたが、敵機の機関砲の音です。鉄帽をかぶり、着剣をして、貨車の下にもぐりました。機関車を離して、土塀の中に避難させようとするのですが、敵はすかさず機関車に砲弾を撃ちこみます。蒸気がジュジュとふいています。敵機は艦載機でただ一機です。わが軍の輸送を脅かす目的ですから、機関車を撃ぬけばただちに引き上げて行きます。制空権を奪われた友軍には鉄路を守る備えもすでにありません。
貨車の下から出てみると厚いレールが砲弾に撃ぬかれ、穴があいています。中国の人がワーワーとあつまってきます。何かと思えば、機関砲の薬きょうを拾っていました。
浦江の駅の近くで、代わりの機関車が来るまで待機です。きれいな水の流れがあったので、久ぶりに洗面をしました。夕刻代替の機関車が到着しました。再び貨車にのり出発です。
揚子江は広く海かと思うくらいです。鉄道連絡船で貨車のまま対岸に渡ります。ここから汽車は東進します。
雨が多いこの辺りは、傾斜が急な草屋根の家が多くみられます。
ちょうど旧暦の正月で、むかで凧等、中国独特の凧が空高く舞い上がっていました。
通過する列車から南京城を眺めました。城壁や門の大きさは想像以上でした。列車は長江沿いにさらに三百キロ下り、蘇州を通過します。
ここはもう春が近く、柳が水に影をおとし、高い仏塔がそびえる風景は、まさに一幅の南宋画です。
汽車は目的地の上海につきました。夜のプラットホームに馬匹受領にきた兵士たちは、四国で新編成になったばかりの部隊の初年兵です。新品の大勒をもって張り切っていましたが、つれてきた馬は癖馬が多く、とても簡単には御しきれません。これでたちまち前線へ出動と言うんですから苦戦するのは目に見えています。負け戦になると悪条件が重なり、ますます戦闘は不利になるばかり。
上海の町はコレラが蔓延していて、入ることができません。やむなく「日本車百万上陸」のアドバルーンで知られる呉淞にむかい、宿泊しました。せまい建物の中で、装具をつけたまま、横になるスペースもありません。荷物同様に座ったまま、疲れきった体を休め、しばしまどろみました。
翌朝外に出てみると、付近の工場の建物や煙突が、日本軍の砲撃の跡も生々しく無残に破壊されています。
外出が許され、「本場にいったら南京そば(中華そば)でも食べてこよう」なんていっていましたが、高価でとても兵隊の小遣いでは食べられません。街にならぶ露店には何でもありました。野菜、果物、魚介類、食料品が山と積まれ活気を呈しています。郊外から運んで来るのでしょうか、体でうまく調子をとりながら、竹の天秤で運んでます。こちらも値段が高く眺めただけでした。
街で食うことも買うこともあきらめ、日本軍人の為の酒保に行きました。蓄音機から流れる「支那の夜」を聴きながら生ビールを飲みました。
街を行軍していると、割れた窓ガラスを何と紙幣で貼り合わせてある家があって驚きました。貨幣価値がなくなったとは言え、インフレのすさまじさを改めて感じました。
帰りの上海駅は人で溢れかえってました。日本軍が行くと群衆は広く道を空けます。その駅の中を防寒服、防寒帽、防寒靴と満州から来ましたといわんばかりの出で立ちで、ホームに入り、汽車に乗ります。
ホームに落花生をつめた麻袋が山と積んであります。さすがに特産品だけあります。
郊外は麦が五センチほどに伸びていました。貨車の中で防寒服では汗が出るくらいです。中国はいかに広いかが身にしみました。
帰りの貨車は馬がいない分、ゆうゆうと寝られますが、シラミに悩まされました。馬の寝藁の中にいたのか? どこでいつついたものかその繁殖力は凄まじく、シラミ取りが車中の日課になりました。上衣の襟から襟布、階級章にまでシラミのきさじ(卵)がぎっしり生みつけられています。爪でつぶすとヒシヒシ音がしました。
古兵は上海駅にあった落花生をいつのまにか手にいれ、途中の駅で、飯盒に入れて機関車の熱で煎ってました。我々にもお裾分けがありました。軍隊できたえた生活の知恵です。