忘れ難き歳月
出征から抑留まで
昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、アメリカ太平洋艦隊に大損害を与えた。
昭和17年(1942年)、東條内閣は、翼賛政治体制を確立。国民生活は統制され監視された。
召集令
昭和17年、戦争は次第に激しくなり、米軍の偵察機が八王子にも飛来するようになりました。国家総動員態勢の下に「欲しがりません勝つまでは」とか「一億総火の玉」等という標語が叫ばれ、一方で、私たちの国民の生活は次第に困窮していきました。
食料は代用食、このころから、飯は一杯と決め、昼は食パンで済ませました。「一汁一菜」、「日の丸弁当」という言葉もこの頃はじまりました。
小学校では児童にカラムシを採取させ、繊維資源として供出しました。薬草を採取したり、ドングリをひろって、供出しました。
自転車のタイヤ、チューブ、地下足袋なども配給で、会館に集まって、抽選で分けました。
児童のズック靴も、配給されましたが、すぐにも破れてしまいそうな質の悪いものでした。酒はたまに配給があると、父と弟と三人で飲みました。
母は何か見つけて、つまみをつくり、わずかながらも楽しい宴にしてくれました。
軍の馬糧にする干し草も各戸に供出を割り当てられました。
昭和17年10月
下旬の晴れた日、浅川の櫟林で萱を刈っているところに、母が来て、召集令状(赤紙)が来たことを告げました。ついに来るべきものが来た。かねてより覚悟のことなので別にあわてもしませんでした。
当時、私は、由井第三小学校(小比企国民学校)に勤務していました。
校長をはじめ職員のみなさんに挨拶、担任だった六年生の教室を整理し、教え子にも別れを告げました。
由井村の人たちは、村出身の若者が応召するのとおなじように、大杉のある稲荷神社の社殿で壮行会を開いてくれました。そして、青年団から「寄せ書き」の日の丸をいただき、感激に胸がいっぱいになりました。
入隊
昭和17年11月1日
日枝神社に朝の四時に集合。
増産に励む農家の方に迷惑をかけるので、慣例になっていた八王子駅までの送別の行列を辞退しました。それでも幾人かの人が見送りに来てくれました。
朝の暗い中、日の丸の小旗をハンドルになびかせた十人くらいの若者たちと銀輪を連ね、約6キロの道のりを駅に向かいます。
八王子駅で電車に乗り、家族、見送りに来てくれた親戚と共に、世田谷の部隊に到着しました。
昭和17年(1942年)11月1日
東部十二部隊(世田谷)近衛野砲兵聯隊に入隊です。
営門を入るともう外界とは隔絶された世界です。身体検査を受け、被服を受領します。
「赤いつばのある帽子なら内地勤務、戦闘帽なら外地」
と古兵はいいます。受領した被服は戦闘帽に長靴、これによって、乗馬隊で外地ということが想像されました。
軍服を着けます。星一つの襟章をぬいつけます。着たことのないひものついた袴下(ももひき)、瀬戸物の釦のついたじゅはん(シャツ)、コリコリした軍服(上衣袴)、
どれもぴったりしないゴツい服装です。靴も軍隊では足を靴に合わせるのだと聞かされました。
貴重品入れという紐のついた袋をわたされました。この中に軍隊手帳と財布を入れ、常時、紐を首にかけて、上着の内物入れ(ポケット)に入れておくのです。
我々の兵舎は砲廠(大砲の倉庫)です。辞令の出るまで、しばしの居候です。食事はセルフサービスです。夕食後は酒保で買い物ができます。
教育係の古兵日く。
「他の兵士はすべて、新兵であるお前たちより上官であるから、欠礼してはならない」 私たち新兵は、うっかり兵舎の外へ出られなくなってしまいました。営庭は古兵だらけで、行き交う度に、敬礼をしなければならないからです。
我々の演習は敬礼、整列、行進など初歩的な教練です。
ちょうど秋季演習中で、近衛聯隊は営庭に整列し、我々新兵が見送る中、営門を出発して行きました。
砲廠で、軍人勅諭の暗記。
「わが国の軍隊は………一つ軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」だれもかれも夢中で暗記していました。
しばらくたった、ある日、指導教官が「松陰神社で家族と面会させてやるから、家へ連絡をしてもよい」と言うので、それぞれ家に電報をうちました。
しかし、教官の都合が悪くなったとかで訓練がとりやめになったのです。家族にその旨を知らせなければなりません。私は「○○ヒチュウシ」という電報をうちました。
ところが、家族全員が、部隊へ面会に来たのです。○○日に中支へたつと勘違いして全員で来てくれたのです。営兵所によばれ許されました。
営兵所の庭にベンチがあり、屋外面会所になっていました。怪我の功名で思いがけなく皆にあうことができました。今にして思えば父とは最後の面会でした。
「松陰神社」の御利益か、他にも何人かの兵士が家族と面会出来ました。
このような砲廠生活をしているうちに、いよいよ外地へ立つ日がきました。
品川出発
昭和17年(1942年)11月17日 品川駅を出発
肌寒い秋雨をついて、世田谷の部隊から品川駅まで歩きます。目的地は知らされていません。
戦時下で、ほの暗い駅の構内に入り、待機していた茶色の木造列車に乗車します。よろい戸をおろした汽車は夜の東海道をひた走りに走りました。
翌朝六時頃、京都の駅のホームに入りました。国防婦人会の方が湯茶の接待をしてくれました。
「お国のためにご苦労さまです」
「体に気をつけてしっかりお願いします」
モンペに割烹着、白だすきの婦人達は、お茶を注ぎながら口々に励ましてくれました。 朝食の弁当を食べると、汽車はホームを離れます。
初めて通る中国地方ですが、軍用列車では車窓の風景も楽しくは感じません。よろい戸を少し開けて、そうっと窓をのぞいた時見えた、瀬戸内の静かな海の風景が印象に残っています。
下関で列車をおり、連絡船で門司に。
翌日、輸送船で釜山港に向かって出帆しました。
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渡満
玄海灘はさすがに荒海です。祖国の島を、遠くかすかになるまで、甲板からみつめていました。祖先が築き上げた歴史、文化の永遠なれと祈り、これが見納めになるかもしれないと想いました。
玄海灘の大波は船をはげしくゆすります。船室に入ると、船槍独特のオイルの臭いと、汚物の臭いが鼻をつきます。皆横になり、洗面器をかかえて、ゲーゲーやっていました。 陽が西にしずむころ、輸送船は釜山港に到着。ここからは鉄道で目的地に向かいます。釜山駅で夕食の弁当を食べました。
大陸の線路は広軌、蒸気機関車の動輪の大きいこと。我々の乗る貨車も大きい。
いよいよ大陸にむけ、朝鮮半島を北上します。
藁屋根が多く、赤土のはげ山が目に飛び込んできました。風景が大きくかわり、いよいよ外地だと感じます。民族服の頭に物をのせて歩く人々。はしごを背負って働く少年。冬をむかえる半島の風景は淋しく映りました。
汽車は鴨緑江にむかわず、龍山から半島をななめに横切って日本海を右に「圖椚」にむけて走ります。朝鮮半島の北部となればその寒さは日本とは比較になりません。
すれ違いの列車で、つばで窓ガラスをふいて我々を見ていた女の子が印象深かったです。 漁港らしい聚落に大漁の旗か、五色のきれいな旗が潮風になびいていました。この辺りには松林の中にかわらぶきの構えのよい家があって、色鮮やかなチマチョゴリの娘が、さっそうと歩いていました。
国境通過
国境の駅「圖們」は真夜中に通過しました。東満州を北上して、翌朝、牡丹江駅に到着。駅前には赤レンガの兵舎が立ちならんでいます。ここで下車した部隊もありましたが、我々の貨車は切り離されて、さらに国境方面にむけて東に進みました。
ようやく列車のとまったところは「興凱」という駅でした。
朝早くの到着で、吹きっさらしの興凱駅には、入隊する部隊のトラックが待ってました。我々の休憩のために幾張りかの天幕が張られています。
弁当に温かいみそ汁の給与がありました。品川出発いらい列車と輸送船の毎日で、弁当生活がつづいていました。凍てつく寒さのなかで、温かいみそ汁は、ようやく人心地がついたといいましょうか、今でも忘れられません。
むかえの下士官の指揮で、全員トラックにのります。幌なしの荷台に乗って、風にふかれて、その寒さは身を切るなんていうものではありません。
「鼻がローソクのように白くなると凍傷だから、そうならないうちに摩擦をするように」と下士官に言われました。
恐さのあまりやたらと鼻をこすりました。部隊まで三十里はあるといいます。でこぼこの凍った道を土煙を巻き上げて走りました。東満州の枯れた山、果てしなくつづく枯れ草の原野、その上想像を超える寒気、こんな土地で暮していけるだろうかと思いました。
部隊入隊
到着したところは「東満総省宝清県宝清満州第一五三部隊騎砲兵聯隊」です。
営庭で聯隊長の訓辞を受けます。
衛兵所を入ると聯隊本部、本部行李、第一中隊、第二中隊、聯隊段列と兵舎が並びます。聯隊本部には菊の御紋章が燦然と輝き、広い営庭のむこうは騎兵部隊の兵営です。
私は聯隊段列の第三班に配属となりました。中隊長は埼玉の人で、体格のよい将校でした。
古兵は関特演(関東軍特別大演習の名のもとに満州に増強された)の予備役の兵隊で、関東出身の人たちが多かったです。入隊してくる初年兵がいつも年配者ばかりで、しごきがいがないと、腐りきっていたらしいのです。
今回も入隊してきたのが生のいい現役ならよかったのでしょうが、期待に反し、補充兵のロートル(年輩者)でしたから、その鬱憤を晴らすには不足です。
私は、その時二十八歳のロートルの新兵でした。私の周囲にいた新兵さんも似たような年格好でした。
初年兵教育
初年兵の活動分野がいいわたされます。
私は、砲手班に編入され、砲手としての教育をうけることになりました。二番砲手と言って、大砲の転把をまわして、砲の照準をあわせる役です。砲手としては一番責任が重く、弾が命中するもしないも二番砲手にかかっています。教官は大いに期待をかけ、熱心に指導をしてくれました。
通信されてくる照準点、方向、高低を班長が合図します。これにあわせて、眼鏡をのぞき照準点をあわせます。次に、転把をまわして、方向、高低をあわせます。操作がすむと、「ヨシー」といいます。りゅう縄をひくと一発お見舞いとなります。
演習後、アンペラ(アンペラ草のむしろ)囲いの仮砲廠で、砲の手入れをします。零下三十度の屋外では、金属に素手でふれるとはりついてしまいます。
騎砲兵隊は、馬に大砲をひかせたり、全員が馬で移動するのですから、乗馬訓練は必須です。さわったこともない大きな動物の世話をして、それを御す訓練を受けるのです。
乗馬、手綱のさばき、あぶみのはき方等、初歩的な指導をうけます。最初は、馬の背にしがみつくのがやっとで、馬に乗るというより、馬に乗せてもらって歩く格好です。
きじ追い
12月も終わりに近いころ、「きじ追い」の聯隊命令がでます。まだおぼつかない手綱さばきで初年兵も参加します。東満州の荒れ野は地面が凍結して、地面に亀裂がはいっています。
「この割れ目に馬の足をつっこむと、骨折するから気をつけろ」と班長は注意しました。 満州の野には雉が多く生息しています。古兵が、遠くから追い散らすと、雉は長く飛べないので、すぐ着地して、トットットットッと歩きます。そこを見計らって、次の追い込みをかけます。かくして雉をへとへとにつかれさせます。最後にはへたばって、枯れ草の中などにもぐります。 「頭かくして尻かくさず」
そこをすかさず生け捕りにします。慣れている古兵は何羽もつかまえました。
獲物は聯隊へ提出しなければなりません。
ところが捕らえた獲物をのこらず提出する者はなく、聯隊本部には予期したほどの獲物は集まりません。
点呼後、戦友殿に下士官室に呼ばれました。
何事かと思って行ってみますと、雉料理のご馳走でした。雉の笹身を刺身で食べたのははじめてのことでした。こっそりごちそうしてくれた戦友殿の温情に感謝しましたが、仲間には悪いような気がしました。
♪新兵さんも古兵さんもみな起きろ、起きないと隊長さんに叱られる………
起床ラッパです。
「起床」という不寝番の元気のよい声に、一斉にはね起き、袴下をつけ、一、二、一、二と乾布摩擦をします。私はいまだにこれを続けています。冬はやらないと寒くて仕方がありません。
寒中は、各自サイダー瓶に一本ずつのうがい薬がわたされます。風邪の予防にうがいをします。ところが、初年兵はなかなかうがいをやっている時間がありません。当然薬は余りますが、時々、残量の検査があります。見つかるのを恐れ残ったうがい薬を飲んでし
まった者がいたそうです。
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厩作業
点呼がすむと、駆け足で厩へ、班の馬は二十頭もいたでしょうか。古兵はなれた手つきで、馬房から馬をひきだし、水飼をします。
我々は馬糞、寝わらの搬出。馬糞は大八車につんで、裏門から馬糞捨て場に運びます。寝わらを外に出して、乾燥させ、餌づけをします。コウリャンが主な馬糧です。
馬は気持ちよさそうにコリコリ音をたてて馬糧をはみます。そのあいだに馬体の手入れをします。金櫛と呼ぶ鉄製の歯のついた櫛と大きな、ブラシを使って、馬の毛並みを整
えます。
馬房にはいる時は必ず「オーラ」と声をかけます。馬は臆病なので、突然近づくと驚いて、蹴るからです。
号令で、作業をやめ、駆け足で整列します。
食事
兵舎に帰り朝食です。当番の用意した食事がテーブルの上にぎっしり並んでいます。一人当たり、メンコ(金属製の食器)に一杯の飯と汁です。作業後の朝食は、お腹がすいているからおいしいですが、味わって食べてはいられません。
「飯は喰うものではない! 飲むものだ! だらだらしていて戦闘ができるか!」と気合いをかけられます。
ろくろく噛まずに次々と飯を口の中にほうりこみます。まったく飲むようなものです。 食事を終わり、身のまわりの整頓もそこそこに、訓練あるいは作業がはじまります。急ぎの時は食事後に使役が命じられます。使役は、いろいろあります。
将校官舎の水道が寒さのために破裂して、その水が凍って家が閉ざされたと言うので、その氷割に行ったこともあります。
ペチカで燃す石炭を部隊まで運搬する使役もあります。軍隊の円匙(シャベル)は大きくて、重いから大変です。一期毎に検閲があるので、検閲が近くなると、そんな使役の伝達の時も、みな我先にと威勢のよい返事をして出かけます。進級が目先にちらついているからです。
満州の寒さ
凍った井戸の水くみ満州の寒さは日本の内地からは想像できません。
馬の水飼には、井戸の水を汲んで使います。井戸の周囲が凍って次第に高くなります。そのてっぺんには、経四、五十センチの水くみ用の穴があけてあります。その中に柳であんだざるに綱をつけておろし、水を汲み上げます。
古兵がくみあげた水を、新兵が桶にあけその桶を天秤で運びます。ざるで水をくむなんて不思議に感ずるでしょうが、柳がふやけて、水がこぼれないのです。素手で水くみをするのですが、水は零度なので温かく感じます。とは言え零下三十度、こぼれた水は、流れ落ちる間にどんどん凍ってしまいます。氷の山は段々高くなり、そのうち滑って作業ができなくなります。この氷を割る作業も勤務あけの使役が出て行うのです。
乗馬訓練
乗馬訓練も日を追う毎に、厳しくなります。
一人一頭ずつ馬を決めて、世話をするのですが、班長殿はおとなしい馬を私に預けてくれました。「演習はじめ」のラッパの合図で、厩に走り、鞍をおいて、大勒をはませ、営庭に早い順に並びます。私は、要領を覚え、鞍の腹帯などはざっとしめ、轡くさりもしないまま営庭に並び、検査を待つ間に、腹帯をしっかり締め、轡くさりをかけます。
全員が揃い上官や古兵が検査にまわって来るまでに充分時間があるのです。
並足、速足と訓練がつづきます。
経験もなく、臆病な私ですが、どうやら人並みに馬に乗れるようになりました。なんでも鞭でひっぱたく教官の強引な指導のお陰でした。
一日の訓練がおわると厩にかえり、馬の手入れをします。心が通じ合うと、馬は可愛いものです。足を洗い、馬蹄に油を塗り、脚を入念にマッサージ。汗をかいた時は、背中に毛布をかけてやります。水飼、飼つけをすませて、ようやく兵舎にひきあげます。
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